対仏戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/07 00:56 UTC 版)
「クリストファー・コール」の記事における「対仏戦争」の解説
コールはその後4年間インドにとどまり、クラウンからコーンウォリス指揮下のミネルヴァ(英語版)へと移り、1793年6月に代理海尉としてリチャード・キング(英語版)艦長のビエン・エイム(英語版)に乗艦した。1793年9月、海尉試験合格から4年以上も経って、コールはついに海尉となり、その翌年にアイルランド沖の、ジョン・ドリュー艦長のセルベリウス(英語版)で任務についた。これは、チャタム卿ジョン・ピット(英語版)の直々の命令であった。これにより、コールは最近昇進したにもかかわらず、セルベリウスで最年長の海尉であることが確実になった。1795年6月、コールは西インド諸島の、ヒュー・シーモア(英語版)艦長のサンス・パレイルに異動し、1799年にはスリナム侵攻に加わった。この侵攻でシーモアはコールを、拿捕艦のスリナム(英語版)のコマンダーに昇進させた 。 コールはスリナムで指揮を執っていた間、多くの巡洋航海を成功させた。その中には1800年3月に2隻の私掠船を拿捕したこと、そして商業用スクーナーの再拿捕や 、カリブ海で乗組員の健康を保つために、新しい規則を導入したことも含まれていた。1801年、シーモアは熱病で亡くなったが、コールの活動は既にシーモアに代わって就任したジョン・ダクワース(英語版)から認められており、1801年の6月30日に、ダクワースの旗艦レヴァイアサンの勅任艦長(英語版)となり、翌年にはフリゲートのサウザンプトン(英語版)の指揮を執った。コールがサウザンプトンの指揮官になって間もなく、アミアンの和約により、フランス革命戦争は終わって、サウザンプトンは退役した 。 1年も経たないうちにナポレオン戦争がはじまり、コールは第一線に戻った。ペリューの推薦を受けて少将となり、自らの旗艦カローデンを指揮した。1804年、ペリューはインドに派遣され、コールも共に3年の間、ジャワ方面作戦(英語版)に参加した。ストレスの多い極東での任務で、コールとペリューの関係は亀裂を生じた。1807年の3月に、コールは新造されたフリゲートのドリス(英語版)の指揮を執った。1808年、ドリスはペリューの命令により、ペルシアの君主であるファトフ・アリー・シャーの元へ向かう、ジョン・マルコム(英語版)率いる外交使節団を護衛するために派遣された。この役目の間、コールはペルシア湾沿岸のブーシェフルに滞在し、ベンガル総督からの謝意、そして500ポンドの謝礼を受けたが、彼の指揮はペリューから公然と批判された 。 ドリスは、ペリューの後任となったウィリアム・オブライエン・ドリューリー(英語版)の指揮下に入り、マラッカ海峡での任務に派遣された。これは、フィリピンのスペイン政府と共に任務に就く関係を得るためのものだった。コールはうまくこれをやってのけ、フリゲートのキャロライン(英語版)の指揮を1809年に執り、その翌年には戦隊の指揮をまかされた。モルッカ諸島への攻撃で、コールの自由意志にゆだねられていた。コールは防御が盤石なバンダ・ネイラへ航行すると、8月10日に大胆な攻撃を計画し、要塞へ突進した部隊はここの占拠に成功した。翌年、コールはジャワ侵攻(英語版)の指導的役割に立ち、ロバート・ストップフォード少将のもとで侵攻を成功裏に終わらせた。この功績により、1812年5月にはナイト爵に叙せられ、特注のメダルとオックスフォード大学の名誉博士号を与えられた。 1813年、コールはヨーロッパに戻って、海峡艦隊で戦列艦リッポン(英語版)の指揮を執った。1813年には損害を受けたフランスのフリゲート、ウェゼ(英語版)を拿捕した。1814年には、フランスの軍艦に拿捕されていた、価値の高い貨物を積んだスペインの財宝船を再拿捕した。1814年9月1日、リッポンは退役し、コールも、34年間続いた海軍での経歴に幕を下ろした。
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