海軍での経歴
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1885年(明治18年)11月21日 海軍兵学校に入学。 1889年(明治22年)4月20日 海軍兵学校を卒業(海兵15期)。 1892年(明治25年)12月21日 海軍大学校丙号学生(1893年(明治26年)卒業) 1894年(明治27年)3月1日 防護巡洋艦「千代田」分隊長心得12月9日 防護巡洋艦「千代田」分隊長・海軍大尉 1896年(明治29年)7月7日 海軍兵学校砲術教官兼監事 1899年(明治32年)9月29日 海軍少佐 1900年(明治33年)2月12日 砲術練習所教官兼海軍機関学校教官6月14日 海軍機関学校教官と陸軍要塞砲兵射撃学校教官を兼任。 1902年(明治35年)1月18日 海軍大学校選科学生 1903年(明治36年)7月7日 海軍大学校教官 1905年(明治38年)1月12日 防護巡洋艦「松島」副長・海軍中佐 1907年(明治40年)2月28日 戦艦「鹿島」副長 1907年(明治40年)12月10日 再び海軍大学校の教官となり、1911年(明治44年)まで務める。 1910年(明治43年)3月19日 海軍大佐12月1日 造船監督官としてイギリス出張し、1911年(明治44年)4月まで務める。 1913年(大正2年)12月1日 一等戦艦「朝日」艦長 1914年(大正3年)12月1日 呉工廠砲煩部長・造兵監督官 1915年(大正4年)12月13日 海軍少将(勅任官) 1919年(大正8年)6月1日 海軍技術本部出仕12月1日 海軍中将・待命 1920年(大正9年)8月1日 予備役 1932年(昭和7年)12月28日 海軍を退役。
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海軍での経歴
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リーヒは少尉候補生としてオレゴン (USS Oregon, BB-3) に着任、太平洋で勤務する。米西戦争時の1898年春、オレゴンはマゼラン海峡を全速で通過し、7月3日にはサンチャゴ・デ・キューバ海戦に参加した。 2年間の海上勤務後、リーヒは1899年7月1日に少尉に任官する。当時彼はアジア戦隊(Asiatic Station)で勤務し、米比戦争および義和団の乱時には砲艦キャスティン (USS Castine, PG-6)、給糧艦グレイシャー (USS Glacier, AF-4) に士官として乗り組み、砲艦マリベレス (USS Mariveles) を指揮した。1902年に帰国し、続く5年にわたってタコマ (USS Tacoma, CL-20)、ボストン (USS Boston) に乗り組み、パナマ運河建設初期のパナマで勤務した。 1907年に海軍士官学校の教官に着任、物理と化学を担当する。1909年に再び海上勤務となり、カリフォルニア (USS California, ACR-6) の航海士官として太平洋艦隊で勤務した。リーヒは1911年10月18日に少佐に昇任し、ジュピター (USS Jupiter, AC-3) がメア・アイランドで起工するときにはタフト大統領の海軍補佐官を務めた。ニカラグア占領時にリーヒは海軍派遣部隊の参謀長であった。 1912年後半に彼はワシントンD.C.での陸上勤務となり、砲術訓練およびエンジニアリング部の副部長を務める。1913年には航海局に異動し、1915年まで勤務する。その後1915年から1916年にかけて砲艦ドルフィン (USS Dolphin, PG-24) の艦長を務め、この時に当時海軍次官補であったフランクリン・ルーズベルトとの友情を深めることとなる。1917年前半には西インド諸島で大西洋艦隊偵察部隊、第3戦隊の先任副官を務めた。 次いで戦艦ネバダ (USS Nevada, BB-36) の副長職を務め、1918年4月のアメリカ合衆国の第一次世界大戦参戦に際しては輸送艦プリンセス・マトイカ (USS Princess Matoika, ID-2290) の艦長に着任、フランスへの兵員輸送に従事した。この任務の功績でリーヒは海軍十字章を受章した。 1918年に再び陸上勤務となり、3年にわたって砲術訓練およびエンジニアリング部の部長職を務め、同時に火器管制委員会の上級委員も務めた。1921年にセントルイス (USS St. Louis, C-20) の艦長に着任、希土戦争でトルコ海域に派遣された。戦争が終了すると第1機雷敷設戦隊を指揮し、1922年には指揮部隊の指揮官も兼任した。 帰国後1923年から1926年まで航海局の人事部長を務め、その後戦艦ニューメキシコ (USS New Mexico, BB-40) の艦長を1年務める。1927年には少将に昇進、兵站局長に就任した。およそ4年間同職を務め、1931年には駆逐艦偵察部隊の指揮官に着任した。 息子のウィリアム・H・リーヒは1927年に海軍士官学校を卒業し、第二次世界大戦が始まる前に海軍の情報収集活動に従事した。 1933年、再びワシントンD.C.での陸上勤務となり、航海局長を2年間務める。その後中将に昇進、戦艦戦隊の指揮官に着任した。1936年にリーヒは戦闘艦隊司令長官に就任し、併せて大将に昇進、戦艦カリフォルニア (USS California, BB-44) に四つ星の大将旗を掲げた。 1937年1月2日、ルーズベルト大統領より第7代海軍作戦部長に指名され、1939年8月1日に一旦退役するまでこの任にあった。大統領は「ビル、我々が戦争をするならば、君は直ちにここに戻って私の手助けをしてくれ。」と語った。
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海軍での経歴
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ウィリアム・ブライの海軍での経歴は、多くの職務と多くの任務から構成されている。彼が最初に受けた名を上げたのはキャプテン・クックの軍艦「レゾリューション」の航海長としてであった。ブライはクックの最後の航海を完了させたことで賞賛を受けた。彼の経歴の概要は以下の通りである。 日付階級乗艦1761年7月1日 - 1763年2月21日 キャプテンズ・サーヴァント 軍艦「モンマス(Monmouth)」(64門艦) 1770年7月27日 上級水兵 軍艦「ハンター(Hunter)」(10門艦) 1771年2月5日 士官候補生 軍艦「ハンター(Hunter)」 1771年9月22日 士官候補生 軍艦「クレセント(Crescent)」(28門艦) 1774年9月2日 上級水兵 軍艦「レインジャー(Ranger)」 1775年9月3日 航海士 軍艦「レインジャー(Ranger)」 1776年3月20日 - 1780年10月 航海長 軍艦「レゾリューション(Resolution)」(12門艦) 1781年2月14日 航海長 軍艦「ベル・ポール(Belle Poule)」 1781年10月5日 海尉 軍艦「バーウィック(Berwick)」(74門艦) 1782年1月1日 海尉 軍艦「プリンセス・アミリア(Princess Amelia)」(80門艦) 1782年3月20日 海尉 軍艦「ケンブリッジ(Cambridge )」(80門艦) 1783年1月14日 商船勤務 1785年 船長代行 商船「リンクス(Lynx)」 1786年 船長 商船「ブリタニア(Britannia)」 1787年 イギリス海軍に復帰 1787年8月16日 海尉(艦指揮官) 海軍武装船「バウンティ(Bounty)」 1790年11月14日 海尉艦長 軍艦「ファルコン(Falcon)」(14門艦) 1790年12月15日 艦長 軍艦「メディア(Medea)」(28門艦) 1791年4月16日 - 1793年 艦長 軍艦「プロヴィデンス(Providence)」 1795年4月16日 艦長 軍艦「カルカッタ(Calcutta)」(24門艦) 1796年1月7日 艦長 軍艦「ディレクター(Director)」(64門艦) 1801年3月18日 艦長 軍艦「グラットン(Glatton)」(56門艦) 1801年4月12日 艦長 軍艦「モナーク(Monarch)」(74門艦) 1801年5月8日 - 1802年5月28日 艦長 軍艦「イリジスタブル(Irresistible)」(74門艦) 1802年3月 - 1804年5月 「アミアンの和約」 1804年5月2日 艦長 戦列艦「ウォリアー(Warrior)」(74門艦) 1805年5月14日 ニューサウスウェールズ(NSW)総督に任命 1805年9月27日 艦長 軍艦「ポーパス(Porpoise)」(12門艦) 1806年8月13日 - 1808年1月26日 NSW総督 1808年7月31日 代将 軍艦「ポーパス(Porpoise)」(12門艦) 1810年4月3日 - 1810年10月25日 代将 軍艦「ヒンドスタン(Hindostan)」(50門艦) 1811年7月31日 1810年7月31日に遡って青色少将に任命 1814年6月4日 青色中将に任命
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海軍での経歴
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「ウィリアム・マクレイヴン」の記事における「海軍での経歴」の解説
大学卒業後は海軍に少尉として任官。Navy SEALsの選抜試験に合格し訓練課程を修了後、SEALとして様々な任務を経験する。 指揮官としては、下級士官の頃にはSEALチーム4/第21水中爆破チームの小隊長や、SEALチーム6の旧名でも知られる海軍特殊戦開発グループ(DEVGRU)の中隊長を歴任。湾岸戦争にも参加し、砂漠の嵐・砂漠の盾両作戦において任務部隊(task unit)を指揮したほか、湾岸戦争後にはSEALsの中でも中央軍(CENTCOM)管轄地域である中東を担当するSEALチーム3の司令官、第1海軍特殊戦グループの司令官を歴任している。 また、現場任務以外に参謀・幕僚としての任務経験も豊富で、特に対テロ任務に関する分野での経験が多い。国家安全保障会議対テロ対策室(Office of Combating Terrorism)の戦略計画部長や、第1海軍特殊戦グループの参謀長、特殊作戦軍司令部の評価担当部長、海軍作戦部長付スタッフなどを歴任している。 将官への昇任を果たしたのは2003年のことで、大佐として国家安全保障会議の戦略・国防問題担当部長を務めていた同年5月に准将に指名される。この昇任人事は上院で承認され、同年8月には昇任にあわせて統合特殊作戦コマンド(JSOC)の作戦担当副司令官(deputy commanding general for operations)に任命・補職された。JSOCの作戦担当副司令官在任中には、JSOC隷下の陸海空軍特殊部隊やCIA(中央情報局)の特殊作戦要員などで構成される任務部隊(タスクフォース)、「タスクフォース121」の司令官を務め、2003年12月13日にイラク・ダウルにおいてアメリカ陸軍第4歩兵師団第1旅団との合同作戦として展開された「赤い夜明け作戦」(“Operation RED DAWN”)において、元イラク共和国大統領で、当時逃亡中であったサッダーム・フセインの捕獲に成功する戦果を挙げた。 2006年2月には少将に指名されるとともに、さらに翌3月には在欧特殊作戦軍(SOCEUR)司令官兼欧州軍(EUCOM)特殊作戦担当部長に任命・補職された 。 在欧特殊作戦軍司令官職には2006年6月に就任し、2008年3月までの2年近くにわたって同職を務めた。在任中は、NATO(北大西洋条約機構)連合軍の指揮に当たる欧州連合軍最高司令部に新設された特殊作戦部隊調整センター(NATO Special Operations Forces Coordination Centre)の初代センター長にも就任し、NATO軍の特殊作戦部隊の作戦能力や相互運用性の増強を図る役割を担った。この時の欧州連合軍最高司令官兼EUCOM司令官であったジェームズ・ジョーンズ海兵隊大将は上官にあたるが、マクレイヴンは、ジョーンズが退役後にバラク・オバマ政権下で国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めた折に、再び共に仕事をすることになる。
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海軍での経歴
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「チャールズ・ミドルトン」の記事における「海軍での経歴」の解説
1741年、ミドルトンは海軍に入って、サンドイッチ(英語版)とデューク(英語版)のキャプテンズ・サーヴァントを務め、後にフランバラに士官候補生(midshipman)兼航海士(master's mate)として乗務した。1745年に海尉となり、1748年に西アフリカの駐留地に赴いたのち、フリゲート艦チェスターフィールドで任務についた.。 1754年に始まった七年戦争では、アンソン(英語版)の艦上で任務につき、その間ルイブールでフランス艦を2隻拿捕した。その後はリーワード諸島に駐留した。1757年1月に、グロッグをめぐる事件が起きた際には、ミドルトンはかっとなって水兵に体当たりし、結局その水兵と軍法会議に出廷させられ、その後の転属され、スループ艦スピーカーの指揮官に昇進した。 1759年にはフリゲート艦アルンデルの指揮をまかされた、この時ミドルトンは初めて勅任艦長(英語版)に昇進した。翌年、エメラルド(英語版)で指揮を執っていたミドルトンは、西インド諸島で16隻のフランス艦と数隻の私掠船を拿捕するという功績をあげて、イギリス領バルバドスの商人たちから感謝された。1762年、ミドルトンはフリゲート艦アドベンチャーの指揮を執り、ノルマンディー沿岸を巡回した。 1761年の12月、ミドルトンは、ミード艦長の姪のマーガレット・ガンビエと結婚した。ミドルトンはその20年ほど前に、サンドイッチ艦上でミードと会戦していた。マーガレットはケント州テストンの、友人のエリザベス・ブーヴェリーの家の近くに転居した。1763年、アドベンチャーでの任務を終えたミドルトンは、マーガレットが住むテストンの家に帰り、それから12年間、ブーヴェリーの土地に農園を作り、田舎のジェントルマンとしての役割を果たした。 1775年、アメリカ独立戦争の勃発により、ミドルトンはノアで護衛艦の指揮を命じられた。ノアはテームズ川河口のイギリス海軍の停泊地である。その後ミドルトンは1778年に海軍主計局長(Comptroller of the Navy/後のサード・シー・ロード(英語版))となって、12年間この役職を務めた。1781年には準男爵に叙任された。時の首相ウィリアム・ピットは海軍増勢の基本方針を示し、ミドルトンにそれを一任した。ミドルトンは12年間の在職中にイギリス艦隊を着実に強化し続けた。このピットとミドルトンの尽力により、イギリス海軍は後の繁栄を迎えることになる。ミドルトンの身上は、洞察力と事務管理の能力であった。また硬骨漢でもあり、海軍卿サンドウィッチ伯爵と衝突したこともあった。 1784年、サー・チャールズ・ミドルトンはロチェスター(英語版)から出馬して、トーリー党所属の庶民院議員となった。6年間議員を務め、その3年後に少将に昇進した。1793年には中将となり、翌年には海軍本部のコミッショナーに就任した。1795年には青色大将となった。 最終的には1805年に海軍卿に任ぜられるとともに、ケント州のバーラムコートとテストンを領有する初代バーラム男爵に叙された。そして、トラファルガーの海戦の勝利を見届けた後、翌年2月のピット死去を以て海軍を辞職した。また、1805年には赤色大将に昇進ており、その8年後に86歳で、バーラムコートの自宅で死去した。 戦列艦バーラムはミドルトンの称号であるバーラム男爵にちなんで名づけられた。
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