海軍(クリークスマリーネ)での軍歴と第2次世界大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/27 14:15 UTC 版)
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2年をSボート、「S-15」および「S-3」の艦長として過ごした後、レーズィンクは1933年10月に潜水艦防衛学校(U-Boot-Abwehrschule)へ転属した。最初に指揮を託されたのは1935年の9月で、艦は新造の「U 11」であった。任に就いていたのは2年間である。1937年の初め、彼は「U 35」の艦長としてポンタ・デルガダ(アゾレス諸島)への哨戒に出た。同年10月にはエッカーンフェルデ (Eckernförde) の魚雷試験場に勤務している。そこには1年間、在任した。1938年12月、第5潜水隊群司令に任じられる。後の1940年1月、第7潜水戦隊の指揮を託される1週間前はUボート艦隊司令官 (de:Befehlshaber der Unterseeboote) 付きの担当官として勤務していた。続いて病気に罹っていたヘルベルト・シュルツェ (Herbert Schultze) 大尉に代わり、「U 48」の艦長となっている。レーズィンクは同艦で55日間の間に2回の哨戒をこなした。そして2回目の哨戒から帰還すると、騎士鉄十字章を授かった。 1940年9月から1941年2月まで、レーズィンクはドイツ海軍の連絡将校として、ボルドーに展開するイタリア海軍の潜水戦隊に勤務する。同年3月から8月にかけて、数か月にわたりUボート艦隊司令の参謀本部に中央部の部長として赴任した後、再び第3潜水戦隊の指揮を託された。1942年7月に西部Uボート部隊指揮官 (Führer der U-Boote) に就任し、フランス沿岸に配備された全てのUボートに責任を持つ立場となった。1944年の秋にはノルウェーに移ったものの、同職に留まっている。そしてドイツの降伏後、1年以上を連合国の捕虜として過ごした。
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