ドイツの降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:59 UTC 版)
「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」の記事における「ドイツの降伏」の解説
詳細は「ドイツの降伏文書(英語版)」を参照 ベルリンの戦いの末期に当たる、1945年4月30日にナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは総統地下壕で自殺した(アドルフ・ヒトラーの死)。海軍総司令官カール・デーニッツ元帥が大統領に指名され、新たな政府を組織した(フレンスブルク政府)。デーニッツは連合軍への降伏は不可避であると考えていたが、できるだけ赤軍ではなく米英に将兵を降伏させたいと考えていた。このため、デーニッツは各軍の降伏タイミングを熟考していた。5月2日にはC軍集団の降伏を決断したケッセルリンク元帥が、E軍集団とG軍集団の降伏をデーニッツに求めたが、赤軍に近いとして降伏を拒絶している。 一方で各軍の降伏は相次ぎ、5月2日にはヴァイクセル軍集団指揮下の第3装甲軍と第21軍、5月3日には第12軍が降伏した。これを受けてデーニッツもG軍集団を降伏させるようケッセルリンクに伝えた。 5月4日は「西部戦線降伏の日」となり、ハンス=ゲオルク・フォン・フリーデブルク海軍大将がオランダ・デンマーク・北ドイツの全艦艇が無条件降伏し、5月5日午前8時(英国夏時間)に停戦する文書に調印した。この際フリーデブルク大将と会見したイギリス軍のバーナード・モントゴメリー元帥は、ソ連戦線内のドイツ軍将兵が米英軍に投降する事は認めないが、投降してきた捕虜をソ連に引き渡す事はないと告げた。デーニッツはこれを米英が対ソ連のためにドイツ軍を必要としている証拠だと考えた。そして米英軍に対し、ドイツ軍の全面降伏が困難なので個別降伏が可能になるよう交渉した。 5月5日にはG軍集団が正式に降伏したが、連合軍参謀長ウォルター・ベデル・スミス中将は個別降伏を拒否し、一括降伏を求めた。5月6日、デーニッツはドイツ国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル大将をランスにあった連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)に派遣し、ドイツ軍将兵を米英戦線に降伏させるための交渉に当たらせた。「もっともタフな折衝家」と論評されたヨードルの交渉の結果、スミスはドイツ側へ48時間の猶予を与えることに合意した。
※この「ドイツの降伏」の解説は、「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」の解説の一部です。
「ドイツの降伏」を含む「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」の記事については、「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」の概要を参照ください。
- ドイツの降伏のページへのリンク