ドイツの追撃とイギリスの撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 10:17 UTC 版)
「ギリシャの戦い」の記事における「ドイツの追撃とイギリスの撤退」の解説
ドイツ軍は4月16日にはすでに連合軍がヴォロス(Volos)、ピレウスから船で撤退しているという情報を掴んでおり、ドイツ軍は追撃に移った。ドイツ軍は退却しているイギリス軍との接触を維持して、イギリスの退却の裏をかこうとし、機動力のない歩兵師団は作戦より除外され、第2、第5装甲師団、第1SS自動車化歩兵連隊と2個山岳師団がイギリス軍の追撃を開始した。 一方、ウィルソンはイギリス軍主力の退却を支援するために、テルモピュライの峠で後衛として最後の防衛を行うよう命令し、マッカイがブラロス(Brallos)の村を占拠する間、フライバーグは沿岸の峠を防衛することとなった。戦いの後、マッカイは「撤退のことは夢にも考えなかった。我々が二週間持ちこたえて、その後、敵の大群に撃破されると思っていた」と語った。4月23日朝、撤退命令がでると2箇所の地点においてそれぞれ1個旅団が防衛、保持することとされた。この任務を命令されたのはオーストラリア第19旅団とニュージーランド第6旅団であり、できる限り峠を保持することとされ、その間に他の部隊の撤退を行うこととされた。4月24日午前11時半、ドイツ軍は攻撃を開始したが、戦車15両を失い、多くの犠牲者を出した。旅団は丸一日持ちこたえ、遅滞行動をとりながら海岸方向へ撤退し、テーバイでもう一度、防衛線を築いた。これを追撃していたドイツ装甲部隊は峠を中心とする山道に苦しみ、その進撃は鈍っていた。
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