バーナード・モントゴメリーとは? わかりやすく解説

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バーナード・モントゴメリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/04/16 07:20 UTC 版)

バーナード・モントゴメリー
Bernard Montgomery
帝国戦争博物館所蔵 英国情報省 第二次世界大戦カラー透明度コレクションより(1944年 第5陸軍映画写真部隊撮影)
渾名 モンティ
生誕 1887年11月17日
イングランドロンドン ケニントン(旧サリー州、現ランベス区
死没 (1976-03-24) 1976年3月24日(88歳没)
イングランドハンプシャー州アルトン
所属組織 イギリス陸軍
軍歴 1908年 - 1958年
最終階級 陸軍元帥
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初代モントゴメリー子爵
バーナード・モントゴメリー
出身校 サンドハースト王立陸軍士官学校
称号 初代アラメインのモントゴメリー子爵ガーター勲章(KG)、バス勲章ナイト・グランド・クロス(GCB)、殊功勲章(DSO)、枢密顧問官(PC)
貴族院議員
在任期間 1946年1月31日 - 1976年3月24日[1]
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初代アラメインのモントゴメリー子爵 バーナード・ロー・モントゴメリー: Bernard Law Montgomery, 1st Viscount Montgomery of Alamein, KGGCBDSOPC1887年11月17日 - 1976年3月24日)は、イギリス陸軍軍人政治家。最終階級は元帥モンティMonty)や「砂漠の鷹」「砂漠の鼠」の愛称で呼ばれた。モンゴメリーと呼ばれることもある。第二次世界大戦における連合国軍のヨーロッパ侵攻計画を連合国軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワーと共に最終調整し、ノルマンディー上陸作戦の地上本部隊総司令官を務めたイギリスの英雄。また、大戦の転換点となったエル・アラメインの戦いで連合国軍を率い、枢軸国軍のエルヴィン・ロンメル元帥を撃破した。

モントゴメリーは、明晰な分析力と冷徹な意志、理論と物量に裏打ちされた総合力を持って戦いに挑むことを基本方針とし、その厳密性ゆえに批判もされたが確実な勝利を得る堅実さで部下の士気を高めた。モントゴメリーとソビエト連邦のゲオルギー・ジューコフは、第二次大戦中最も成功した「防勢的な将軍」だったと評されている[2]

生涯

モントゴメリーは、1887年11月17日にロンドンのケニントン(現在のランベス区)でアングロ系アイルランド人英国国教会牧師の息子として生まれた。母親は著名な牧師の子供であるが、子供達に非常に厳しい教育を施したため、モントゴメリーは母親に対して複雑な感情を抱いていたとも言われ、1949年の母の葬儀にも多忙を理由に出席しなかった。とは言え、両親から教えられた毎日聖書を読み朝夕神に祈ることを、生涯にわたり日課としていた面もあり、モントゴメリーの強烈な気質は母親譲りだったとも言われる。父親がオーストラリアタスマニア州の司教に任ぜられたことから、少年時代の8年間をオーストラリアで過ごす。イギリスに帰国し、ロンドンのセント・ポールズ・スクールを卒業後、サンドハースト王立陸軍士官学校に入学したが、元々問題児だったモントゴメリーは、これらの学校でも札付きの不良で退学寸前だったという。1908年に同校を卒業しロイヤル・ウォリックシャー連隊に歩兵少尉として任官した。1909年、インドに転属して初めての海外勤務を経験している。1912年に帰国、ケントのショーンクリフ陸軍基地の大隊副官を務めた。

第一次世界大戦

第一次世界大戦当時のモントゴメリー(右)

1914年8月に第一次世界大戦が勃発すると、モントゴメリーは部隊とともにフランスに渡り、最前線で史上最大の戦争を経験した。モンスの戦いでドイツ軍に敗れたイギリス軍はベルギー国境近くまで敗走し、その後の反撃の際、モントゴメリーはドイツ軍の狙撃兵に右肺と膝を撃ち抜かれて生死をさまよった。かろうじて一命をとりとめたが、1914年10月に帰国を余儀なくされた。この戦いで勇敢なリーダーシップを発揮したと評価され、殊功勲章を受章した。翌年、軍務に復帰したモントゴメリーは少佐に昇進し、ランカシャーで訓練中であった第112旅団、続いて第104旅団に配属された。1916年には第33師団の参謀として再びフランスに渡り戦線復帰、1917年4月から5月にかけて繰り広げられたアラスの戦いに参加している。同年7月には第9軍団の参謀に転属、パッシェンデールの戦いに参加。1918年には中佐に昇進し、第47ロンドン師団の参謀将校として後方勤務となる。

第一次世界大戦が終わると、ライン川に駐留するロイヤル・フュージリアーズ連隊の大隊長に任命された。1919年には戦時昇進を取り消され、大尉に戻されている。1921年から1923年にかけ、モントゴメリーは第17歩兵旅団の副官としてアイルランドコーク県に駐留し、アイルランド独立戦争とそれに続くアイルランド内戦でアイルランド共和軍との戦いを繰り広げた。1926年にはキャンバレーで陸軍大学教官となる。1927年に第一次世界大戦で戦死したオズワルド・カーバーの未亡人エリザベスと結婚したが、この時エリザベスには既に10代の息子2人がいた。翌年、夫妻は息子のデイヴィッドを授かった。しかしながら、エリザベスは1937年、休暇中に虫に噛まれたことが原因の敗血症で亡くなった。モントゴメリー夫妻は幸福な結婚生活を送っていたようで、モントゴメリーは大いに打ちのめされ、その後再婚することはなかった。1931年、中佐に昇進したモントゴメリーはパレスチナとインドに転属を重ねた。1934年、大佐に昇進するとクエッタインド陸軍幕僚大学で教鞭をとった。1937年6月に帰国し、第9歩兵旅団の旅団長に任命された。1938年10月には陸軍少将に昇任し第8歩兵師団の師団長となり、パレスチナに赴任、続いてトランスヨルダンに赴任する。1939年7月に帰国した。

第二次世界大戦

ジェネラル・グラントの砲塔にて
パレルモにてパットン将軍と別れの挨拶を交わすモントゴメリー(1943年7月28日)

1939年9月に第二次世界大戦が勃発するとイギリス海外派遣軍(BEF)が編成され、モントゴメリーは第3師団の指揮官としてフランスに赴任する。だが、ナチス・ドイツのフランス侵攻における電撃戦でフランス軍は大敗、イギリス海外派遣軍(BEF)はダンケルクから撤退することとなり、戦いの真っ最中の5月30日、第2軍団指揮官に昇進。第2軍団の撤退(ダイナモ作戦)を指揮することとなったモントゴメリーはこの撤退作戦を見事に成功させ、1940年6月1日に帰国する。7月には第5軍団指揮官となり、ダンケルクの戦功によりバス勲章を受章し、中将に昇進した。翌1941年4月に第12軍団指揮官、12月には南東軍指揮官となる。

1942年8月18日、ウィンストン・チャーチル首相はモントゴメリーをクロード・オーキンレック大将の代わりとして北アフリカ戦線における第8軍団の指揮官に任命する[3]。元々着任予定だったウィリアム・ヘンリー・ゴット中将がドイツ軍に搭乗機を撃墜され死亡したことで、モントゴメリーに白羽の矢が立った。モントゴメリーは、オーキンレックら前任者が、「砂漠の狐」と呼ばれ連合国軍においても英雄視されていたナチス・ドイツ軍のエルヴィン・ロンメル元帥を意識しすぎるあまり、「ロンメルの手札を使ってロンメルのルールで戦って」敗北し続けていることを理解していた。オーキンレックは公式な軍命令書にも、「私はロンメルに嫉妬しているわけではない」などと書き、それがドイツ軍側に流出してロンメルが自分の収蔵文書に加えたこともあった。オーキンレックはロンメルが常に最前線で指揮を執り、汚れた軍靴や軍装で1日中砂漠の中で過ごし、食事もサンドイッチやイワシの缶詰といった携行食であることを知ると、それを真似して、司令部を前線に近い厳しい環境に移して、参謀達も含めてロンメルと同様の生活を送るようにしていた。モントゴメリーは、このロンメルの真似事をすぐに止めさせた。モントゴメリーは、軍司令官たる者は勇敢さを演じて将兵に媚びを売るよりも、重要な決断で判断ミスをおかさぬよう、常に心身ともに健康を維持するのが最重要と考えており、モントゴメリーの保守的な厳密的戦術に対するロンメルの臨機応変で奇想天外な戦術と同じく、この点においてもロンメルとは対照的な考え方を持っていた。実際にモントゴメリーの予想通り、この後、ロンメルは過酷な環境下の生活で身体を壊して、判断能力が低下し、長期療養が必要な健康状態となっていった。

8月31日、アラム・ハルファの戦いで、防御側のイギリス軍はモントゴメリーの堅実な防御作戦により、反攻を試みるような本気の動きさえしない一方で、敵のロジスティクス・ラインを効果的に攻撃して勝利を収めた[4]。10月23日、第二次世界大戦の大きな転換点となったエル・アラメインの戦いにおいて、ロンメル指揮下のドイツ・アフリカ軍団を打ち破りエジプトから完全に退却させた。12日間に及んだ激戦において、イギリス軍も相当な被害を被ったが、モントゴメリーはアラム・ハルファの戦いとは対照的に徹底した攻勢に転じることでドイツ軍に勝利した。モントゴメリーの強力なリーダーシップのもと、連合軍の指揮統制システムが格段に向上し、敗戦続きで自信を喪失していた将兵達の士気が大いに高まっていたこと、アメリカからの豊富な補給物資が北アフリカに到達するようになったロジスティクスの向上が要因であり、ドイツ軍を欺くための欺瞞作戦も効果を発揮した[5]。チャーチルからの度重なる攻撃要請のプレッシャーに耐えた結果、チャーチルから指揮能力に疑いをかけられ、敵将ロンメルからも見くびられ始めるなかでの決定的な大勝利であった。

その後も頑強な抵抗を続けようとするドイツ軍に対して、戦力の逐次投入で戦況が泥沼化することを防ぐため、11月1日、モントゴメリーは「スーパーチャージ作戦」を発動[6]。枢軸国軍を一挙に叩くために、地中海沿岸側と内陸側を包囲して、両者の中間地点にあるエル・アカキール高地を奪取することを目指した。よって、枢軸国軍との間でエル・アカキール高地を巡る大戦車戦が展開され、双方に甚大な被害が生じたが、モントゴメリーは十二分にそのことを見越しており、補給が危機的状況にある枢軸国側の組織的反撃が不可能になるまで、この地で勝敗を決するために戦力を大胆に投入し続けた。ついに4日、ロンメルはヒトラー総統の命令に背き独断で撤退を下令。同日、ドイツアフリカ軍団司令官のヴィルヘルム・フォン・トーマ大将がイギリス軍に投降した。モントゴメリーはそのままチュニジアに向けて西進を続け、1943年1月23日には、枢軸国の一大策源地であったトリポリに入城した。3月3日、ロンメルは反攻作戦「カプリ」を発動するが、巧みな迎撃戦によって、ロンメル得意の機動戦への移行を再び封殺した。

7月10日から、ドワイト・D・アイゼンハワーの指揮のもと、連合国軍はシチリア島への上陸を目指したハスキー作戦を発動。この作戦でモントゴメリーは、アメリカ陸軍のジョージ・パットン将軍が率いる第7軍団に、モントゴメリーが率いる第8軍団の担当区域で最終目標であったメッシナを先に占領されてしまった。主攻はモントゴメリーの第8軍団でもあり、プライドをひどく傷つけられたモントゴメリーは、以降、パットンをライバル視するようになった。このパットンへの対抗意識が、作戦立案において厳密なモントゴメリーをして、後の「マーケット・ガーデン作戦」での失敗に繋がる一因となったとも言われる。

シリチア戦役後、モントゴメリーはイタリア本土上陸まで連合国軍第8軍団を指揮した。その後ノルマンディー上陸作戦の計画立案のためモントゴメリーはイギリス本国へ呼び戻された。ノルマンディー進攻に先立ってモントゴメリーは、連合国軍地上本部隊総司令官となる第21軍団の指揮官となり、ヨーロッパ戦における布陣を指示した。1944年6月6日のD-デイでは、実質的な連合国軍トップとして、歴史上最大規模の上陸作戦を統率し、ロンメル率いる枢軸国側との激戦の末、勝利を収めた。チャーチルをして「歴史上最も複雑な作戦」であったが、この作戦の成功によって、連合国軍はフランスに上陸し、ナチス・ドイツ打倒に向けた西部戦線での陸戦が再開されることになった。その後、アイゼンハワーがフランスにやって来て連合軍地上本部隊の総司令官となるまで、モントゴメリーは連合軍の地上軍を全て指揮した。この時、モントゴメリーはアイゼンハワーが連合国軍総司令官だけでなく、地上本部隊の総司令官にも就任することに頑強に反対し、アイゼンハワーは前者を務める能力はあるが、後者に関しては自分の方が優れていると主張した。行政的・政治的な能力と、実行部隊の統率は全く異なるもので、両方の役割が1人に集中すると、連合国軍全体のバランスが崩れてしまうという論理と経験に裏付けされた主張で、地上本部隊総司令官が自分ではなくオマール・ブラッドレーでも構わないと明言したが、この時、連合国軍におけるアメリカ兵とイギリス兵の割合は3:1にまで差がついており、結局、アイゼンハワーに押し切られることになった。アイゼンハワー側としては、指揮系統が複雑化することを嫌った面もある。アメリカ側は、モントゴメリーのプライドが傷つかないよう幾つかの地域に関してはモントゴメリーの指揮下に残るように配慮し、チャーチル首相はモントゴメリーを元帥に昇格させることで事を穏便に済ませようとした。この元帥の地位をモントゴメリーが要求したのか、チャーチルの提案だったのかは所説ある。しかしながら、連合国軍内でのバランスを取るため、結果的にアイゼンハワーも元帥に昇進することになった。

英首相チャーチルと談笑するモントゴメリー (1944年7月)

このように、ノルマンディー上陸作戦の成功後、連合国軍内では戦功等を巡ってアメリカ側とイギリス側の内紛が勃発することになる。イギリス軍の実質的なトップであるモントゴメリーに対して、イギリス世論にも配慮したアイゼンハワーは、ブラッドレーの主張したザールラント州からのルール地方への漸次的な南方進軍案ではなく、モントゴメリーの主張したライン川下流域からのルール地方への大胆な北方進軍案に同意し、1944年9月に「マーケット・ガーデン作戦」を決行する。この時、南方の第3軍団を率いていたのがパットン中将で、北方の第21軍団を率いていたのがモントゴメリーであった。この大規模な作戦はアルンヘムでのイギリス第1空挺師団の壊滅などで失敗に終わったが、モントゴメリー自身は当初「作戦は90パーセント成功した。当初主張した十分な規模の兵力と資材が与えられていれば完全に成功しただろう」と評価した。しかしながら、後の回顧録において、「(作戦は)オランダの大部分を解放し、それにつづくラインラントの戦闘を成功に収める飛び石の役割を果たしたのである。これらの戦果を収めることができなかったら、1945年3月に強力な軍をライン川を越えて進めることはできなかったであろう。だが最終橋頭保を奪取しえなかったことは認めなければならない」とした。

このマーケットガーデン作戦の失敗とアメリカ軍司令部との再三にわたる衝突から、戦後になりモントゴメリーの評価は大きな論争の的になった。アメリカ軍の将軍たちやメディアはモントゴメリーに厳しい評価をしたのに対して、イギリスでは一定の評価がなされた。ただ、アメリカ派においては、連合国軍総司令官アイゼンハワーが戦史の中心であり、チャーチルやシャルル・ド・ゴールに対しても厳しい評価を下していること、連合国軍の司令官達はモントゴメリーに限らず、ダグラス・マッカーサージョージ・パットンなど、どれも一筋縄ではいかない猛者揃いだったこと、アメリカ軍とイギリス軍の間の様々な組織的な違いにも留意する必要がある。大局的に言えば、連合国軍はノルマンディー上陸作戦後、破竹の勢いでナチス・ドイツを圧倒していった。

1944年12月16日から1945年1月25日まで続いたバルジの戦いにおいて、モントゴメリー率いる第21軍団は、戦いの趨勢を決めたサン・ヴィトの攻防において決定的な役割を担った。モントゴメリーが的確なタイミングでサン・ヴィトの西方の防御陣地まで撤退したことが、ドイツ軍の当初順調に進んでいた進撃を遅らせ、その後の連合国側の反転攻勢につながることになった。その一方で、バルジの戦いにおいては、連合国軍内において感情的な衝突が繰り返された。連合国軍の前線が南北に分断されかかると、アイゼンハワーはアメリカ第12軍団(ブラッドレー)下のうち第1軍(ホッジス)と、第9軍(シンプソン)の指揮権をモントゴメリーに移したが、屈辱感を覚えたブラッドレーが辞任を申し出るなど、モントゴメリーとアメリカ軍指揮官たちとの関係は悪化の一途をたどった。バストーニュにおける包囲戦において、アメリカ側の第3軍団の苦戦を聞いたモントゴメリーは、アイゼンハワーに対して、アメリカ軍の戦力不足を辛辣に述べて、イギリス軍が第3軍団の援護に向かうつもりが全くないように受け取れる通告を送った。さらに、モントゴメリーは、自分に全地上部隊の指揮権を移すように要求する書簡をアイゼンハワーに送った。連合国遠征軍最高司令部の幕僚は米英軍問わずこの書簡に混乱かつ激怒し、アイゼンハワーはアメリカ軍参謀本部議長ジョージ・マーシャル元帥にモントゴメリーの解任を求める寸前までいったが、イギリス軍参謀長ギンガンド少将の介入によりモントゴメリーが書簡を取り下げることで解任は回避された。しかしながら、1月7日の記者会見で、モントゴメリーが、アメリカ軍に対するリップサービスを行った一方で、バルジの戦いにおいては自分が全てを取り仕切り、イギリス軍の貢献は絶大だった趣旨の発言を行い、連合国軍司令部内に再び緊張を走らせた。慌てたチャーチルが帝国陸軍参謀総長アラン・ブルック元帥と対応を協議し、イギリス議会でバルジの戦いはアメリカ軍の戦いでありイギリス軍の役割は限定的だったとする声明を発表するに至った。共に1月25日に終わったこのバルジの戦いとノルトヴィント作戦における連合国側の勝利で、ヨーロッパにおける第二次世界大戦は最終局面に入った。

3月24日、モントゴメリーはヴァーシティー作戦を発動して空挺作戦を実施し、マーケット・ガーデン作戦で失敗したライン川渡河に成功した。その後、モントゴメリー率いる第21軍団は、オランダ北部やドイツ北東部を奪還し、ユトランド半島にドイツB軍集団を封じ込めた。5月4日、ドイツ政府無条件降伏の3日前に、モントゴメリーは北ドイツの部分的降伏を勝ち取った。

左からチャーチルアイゼンハワー、モントゴメリー(1951年10月)

大戦後

ヨーロッパでの戦争が終わると、モントゴメリーはライン川駐留イギリス軍(BAOR)の司令官となった。1946年には新設された初代アラメインのモントゴメリー子爵となった。その後、モントゴメリーは1946年から1948年まで帝国軍参謀総長を務めた。参謀総長時代、モントゴメリーは他の軍最高幹部達とほとんど口を利くことなく、会合にも自分の副官を送っていた。1999年には、モントゴメリーが1948年のアフリカ視察後の報告書において、クレメント・アトリー首相にアフリカを併合して豊富な資源を獲得し、アジアを失ったことで低下したイギリスの世界的影響力を回復すべきと進言した内容が明らかになった。報告書では、アフリカ人への偏見や差別的表現が散見され物議をかもすことになった。1948年から1951年まで西欧同盟軍最高司令官会議議長を務めた。1951年に北大西洋条約機構(NATO)の欧州連合国最高司令部が設立されると、モントゴメリーはアイゼンハワーの副司令官に就任した。大統領選の出馬に当たって、アイゼンハワーが職を離れたあとも、1958年に引退するまで副司令官の任にあたった。

モントゴメリーの墓

引退後、モントゴメリーは回顧録を執筆し、多くの戦友を痛烈に批判した。アイゼンハワーに関しては、彼のリーダーシップの欠如が戦争を長引かせたと批判し、そのことが理由でアラバマ州モンゴメリーの名誉市民権を剥奪された。モントゴメリーは、ベトナム戦争にも極めて批判的で、1960年代にイスラエルのモーシェ・ダヤン参謀総長と面会した際、アメリカ軍は明確な戦略目的がないままに大軍を派兵して戦争を遂行し、無差別爆撃や村民強制移住を行うなど「狂った軍隊」であると称した。中華人民共和国毛沢東と会談した際も、朝鮮戦争へのアメリカ軍の介入は明白な内政干渉であると批判した[7]。1967年にエル・アラメインを訪れた際、エジプト軍高官にイスラエルとの戦争は敗北に終わると率直に警告し、実際に第三次中東戦争でそうなった。また、1967年施行の同性愛を合法化した性犯罪法は「ソドムの憲章」だと激しく批判し、「フランスではこうした行為が容認されるかもしれないが、我々はイギリス人だ。ありがたいことに」と述べた。

モントゴメリーは1976年3月24日、ハンプシャー州オールトンの自宅で88歳で死去し、セントジョージ礼拝堂で葬式が執り行われたのち、ハンプシャー州ビンステッドの聖十字架教会墓地に埋葬された。モントゴメリー・オブ・アラメイン子爵の爵位は息子のデヴィッド(1928年生まれ)が継承している。父と違って軍人にはならず、政治家・実業家として活動した。

関連

帝国戦争博物館に展示されているモントゴメリーのグラント指揮戦車
  • ノルマンディー地方を統治していた名門貴族の血を引く。フランスでユグノー戦争を戦い、パリ市庁舎前で処刑されたモンゴムリ伯爵ガブリエル・ド・ロルジュ等を先祖にもつ。
  • 第二次世界大戦末期の連合軍総司令部における立ち振る舞いを批判されることが多いものの、最も重要な戦いの一つであるエル・アラメインの戦いなど、大戦の趨勢が未だ判然としなかった時期の戦線における功績は際立っており、「石橋を叩いても渡らない」ほどの守備的姿勢により、現実の戦場で確実に勝利を積み重ねていった。他に抜きんでた防勢的指導は、人命の尊重とも繋がっており、モントゴメリー指揮下の兵士の士気は非常に高かった。第一次世界大戦のパッシェンデールの戦いなどでの犠牲者数のあまりの多さに失望したこと、自身の生死をさまよう経験、陸軍教官時代の徹底的な防御研究などがそうした指揮の確立に寄与した。
  • 「全裸」を意味する英語スラング「フル・モンティ」(full monty)は何でも徹底的にやり遂げないと気が済まない、という(あるいはそう喧伝された)モントゴメリー(の愛称)にちなんで造られたという説がある。
  • 第二次世界大戦を舞台にしたアーネスト・ヘミングウェイの小説『河を渡って木立の中へ』の中で、主人公がバーテンダーにマティーニを注文するさい「モントゴメリー将軍で」と頼む。これはジン15:ベルモット1(通常はジン3〜4に対してベルモット1)のハードなドライ・マティーニの事で、モントゴメリーがドイツ軍との戦力比が15対1以上にならないと決して攻撃を開始しなかった事に引っ掛けている。
  • 子供の時から本人も認める札付きの問題児であったモントゴメリーであるが、モントゴメリーが一般に知られている極端な性格と気質を軍人の立場になってから覆い隠さなくなったのは妻エリザベスを失った後のことである。先夫の子の息子ジョンは、モントゴメリーの死後、「母が父の個人的な奇癖 ー極端な一途さ、他人の動機に対する不寛容と疑念ー を、彼が高官の地位に就くチャンスを得られる時まで、適度な範囲に留めておいたことは、おそらく国家のためになった」と述べている[8]
  • 酒もタバコも女遊びも一切やらず、菜食主義者で、軍の聖書研究祈祷会をリードする敬虔なクリスチャンだった。モントゴメリーと一筋縄ではいかない親子関係だったとも言われる母親であるが、1945年の寄稿文で「読者のうち、毎日聖書の一節を学ぶように育てられた人はどれくらいいるでしょうか。私もそうするように育てられたので、詩篇のほぼすべてと新約聖書のほとんどを暗記しています。私は子供達にも毎朝朝食前に聖書の一節を学ぶように教えました。モントゴメリー元帥の聖書への知識と愛は、この事実に端を発しているのかもしれません。ご存知の通り、彼が常に持ち歩いていたのは、聖書と天路歴程です」と述べている[9]。なお、モントゴメリーの母親は、第二次大戦後に息子の肖像画を寄贈されている[10]
  • モントゴメリーに重用され、第二次大戦中に活躍したイギリス軍の将校達はモンティ一家とも呼ばれ、ブライアン・ホロックス中将、ハーバート・ラムズデン中将、オリバー・リース中将などがいる[11]。その強烈すぎる個性から、好き嫌いがはっきりと分かれる人物だったが、下士官や兵卒からは慕われていた。

影武者

ノルマンディー上陸作戦に先立って実施された欺瞞作戦「コッパーヘッド作戦英語版」では、陸軍会計隊に勤務していた俳優のM・E・クリフトン・ジェームズ少尉がモントゴメリーの影武者に利用された。モントゴメリーに扮したジェームズは地中海に派遣され、高官達と公の場で南フランス侵攻の計画について語ることであえてその情報をドイツ側に漏らし、北フランスからドイツ軍を移動させようと試みた。

栄典

爵位

勲章

モントゴメリーのガーター騎士団員としてのバナー

書籍

  • 『モントゴメリー回想録』 高橋光夫・舩阪弘訳 読売新聞社 1971年 1023-501461-8715(戦後部分については割愛されている抄訳である)
  • コリン・ジョイス『驚きの英国史』(NHK出版新書)「モンティ」pp.131-135

関連作品

  • 遠すぎた橋:1977年公開の映画。マーケット・ガーデン作戦を扱っている。

出典

  1. UK Parliament. Mr Bernard Montgomery (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年2月16日閲覧。
  2. 「第二次世界大戦 影の主役」(「Engineers of Victory」)Paul Kennedy 巻頭
  3. アントニー・ビーヴァー 著、平賀秀明 訳『第二次世界大戦1939-45(中)』白水社、2015年。
  4. 「第二次世界大戦 影の主役」(「Engineers of Victory」)Paul Kennedy p198
  5. 「第二次世界大戦 影の主役」(「Engineers of Victory」)Paul Kennedy p209
  6. バーナード・モントゴメリー 著、高橋光夫 訳『モントゴメリー』読売新聞社、1971年。
  7. Talks with Marshal Montgomery on the Three Principles and the Question of Nuclear Weapons”. 中国網. 2019年6月5日閲覧。
  8. Hamilton, Nigel『Monty: The Making of a General. London: Hamish Hamilton Ltd.』1981年。
  9. Field Marshall Montgomery”. www.chr.org.au. 2025年9月4日閲覧。
  10. British Pathé (2020-11-11), Field Marshall Montgomery's portrait is presented to his mother (1945) 2025年9月9日閲覧。
  11. モントゴメリーとイギリス第8軍”. 2025年9月9日閲覧。
  12. Lundy, Darryl. Field Marshal Bernard Law Montgomery, 1st Viscount Montgomery of Alamein (英語). thepeerage.com. 2014年2月16日閲覧。
  13. “No. 28992”. The London Gazette (英語). 1 December 1914. p. 10188. 2009年10月24日閲覧.
  14. “No. 37119”. The London Gazette (Supplement) (英語). 8 June 1945. p. 2935. 2009年10月24日閲覧.
  15. “No. 37807”. The London Gazette (Supplement) (英語). 3 December 1946. p. 5945. 2009年10月24日閲覧.

関連項目

  • レイランド レトリバー - 第二次世界大戦時にイギリス軍で運用された軍用トラック。モントゴメリー将軍は大戦中、移動指揮所としてレイランド レトリバーのパネルバン型車両を使用しており、この車両は、"モンティーズキャラバン"(Monty's Caravan)と呼ばれ、現在もイギリスのダックスフォード帝国戦争博物館に展示されている。

外部リンク

軍職
先代
初代アランブルック男爵
帝国参謀本部総長英語版
1946年 - 1948年
次代
サー・ウィリアム・スリム
イギリスの爵位
先代
新設
初代アラメインのモントゴメリー子爵
1946年 - 1976年
次代
デイヴィッド・モントゴメリー英語版




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