ドイツの領邦教会とは? わかりやすく解説

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ドイツの領邦教会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 06:40 UTC 版)

ドイツの宗教改革」の記事における「ドイツの領邦教会」の解説

当初はごく限定的な教会腐敗問題、あるいは教義上の問題から出発した宗教改革は、その影響広汎にわたるとともに政治的な傾向強くした。具体的に宗教改革はまず教皇首位権への挑戦という宗教内の政治的問題変容し、さらにドイツ国内皇帝対す諸侯自立求める、極めて直接的な政治問題転化した。この問題三十年戦争直接的な原因ともなるのであり、ドイツ長い分断国家となる契機一つ宗教改革求められる。しかし一方でルター訳聖書近代ドイツ語の基礎となったように、文化的側面においてはドイツ統合もたらす側面もあった。 1530年カール5世アウクスブルク帝国議会招集した議会ではルター派は「アウクスブルク信仰告白」を提出しツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市は独自の「信仰」を提出しプロテスタント内部宗派分裂も明らかとなった議会ではカトリック優勢占め最終的決定翌年議会持ち越されたものの、カール5世ルター帝国追放刑にしプロテスタント異端とする1521年ヴォルムス勅令執行するよう命じたプロテスタント帝国諸侯・諸都市アウクスブルク帝国議会後の翌1531年2月ヘッセン方伯ザクセン選帝侯盟主とするシュマルカルデン同盟結成した宗教戦争一触即発迫ったが、1532年カール5世妥協しニュルンベルク宗教平和によって暫定的にプロテスタント保障した。これを境にプロテスタント勢力一気拡大し南ドイツヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒ1534年復位し北ドイツでも同年ポメルン公、1539年ザクセン公ブランデンブルク選帝侯プロテスタント転じた西南ドイツではルター派とは異な改革派信仰広がっていたが、教義上の問題妥協しプロテスタント政治勢力統一性を持つようになったカトリック諸侯の側もニュルンベルク同盟結成しプロテスタント対抗した1546年にはルター死亡し同年ザクセン公選帝侯地位条件皇帝支持転じたそれ以前ヘッセン方伯重婚問題からカール5世つけこまれ政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身有利な条件整った感じたカール5世同年シュマルカルデン戦争をおこし、シュマルカルデン同盟壊滅させ、翌年アウクスブルク帝国議会ではカトリック有利なアウクスブルク仮信条協定成立した。しかし、息子フェリペにドイツ・スペインの領土帝位継承させようとすると、ますます反発招いてカール5世孤立したザクセン選帝侯モーリッツが再び反皇帝プロテスタントの側に転じ1552年諸侯戦争がおこるとカール5世敗北しパッサウ条約締結。この敗北からカール5世は弟のフェルディナント宗教問題解決任せ1555年アウクスブルクの和議(宗教平和令)が成立した。この平和令により「一つ支配あるところ、一つ宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」という原則のもとに諸侯自身選んだ信仰領内強制することができるという領邦教会制度成立した。ただしカルヴァン派ツヴィングリ派再洗礼派などは除外された。

※この「ドイツの領邦教会」の解説は、「ドイツの宗教改革」の解説の一部です。
「ドイツの領邦教会」を含む「ドイツの宗教改革」の記事については、「ドイツの宗教改革」の概要を参照ください。

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