ドイツの領邦教会
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「ドイツの宗教改革」の記事における「ドイツの領邦教会」の解説
当初はごく限定的な教会の腐敗の問題、あるいは教義上の問題から出発した宗教改革は、その影響が広汎にわたるとともに政治的な傾向を強くした。具体的には宗教改革はまず教皇首位権への挑戦という宗教内の政治的問題に変容し、さらにドイツ国内の皇帝権に対する諸侯の自立を求める、極めて直接的な政治問題に転化した。この問題は三十年戦争の直接的な原因ともなるのであり、ドイツが長い分断国家となる契機の一つが宗教改革に求められる。しかし一方でルター訳聖書が近代ドイツ語の基礎となったように、文化的側面においてはドイツの統合をもたらす側面もあった。 1530年にカール5世はアウクスブルクに帝国議会を招集した。議会ではルター派は「アウクスブルク信仰告白」を提出し、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市は独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする1521年のヴォルムス勅令を執行するよう命じた。 プロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会後の翌1531年2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟を結成した。宗教戦争が一触即発に迫ったが、1532年にカール5世は妥協しニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントを保障した。これを境にプロテスタントは勢力を一気に拡大し、南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協しプロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側もニュルンベルクで同盟を結成し、プロテスタントに対抗した。 1546年にはルターが死亡し、同年ザクセン公が選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、シュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利なアウクスブルク仮信条協定が成立した。しかし、息子フェリペにドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した。ザクセン選帝侯モーリッツが再び反皇帝・プロテスタントの側に転じ、1552年に諸侯戦争がおこるとカール5世は敗北し、パッサウ条約締結。この敗北からカール5世は弟のフェルディナントに宗教問題の解決を任せ、1555年にアウクスブルクの和議(宗教平和令)が成立した。この平和令により「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cujus regio, ejus religio")」という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという領邦教会制度が成立した。ただしカルヴァン派・ツヴィングリ派・再洗礼派などは除外された。
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