領邦教会制度の確立とルター派教会の広がり
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「領邦教会制度の確立とルター派教会の広がり」の解説
領邦教会制は宗教を政治に従属させるもので、領邦国家の自立を教皇も皇帝も認めざるをえなかったため、ドイツの宗教改革における真の勝利者は領邦君主であったともいわれる。領邦君主はカロリング朝やリウドルフィング家のオットー朝のように「キリストの代理人」として教会を支配したわけではなく、端的には世俗国家による宗教管理であり、その意味からは聖俗分離の帰結であり、信仰の個人化と政治の世俗化の進行を促すものであった。アウクスブルクの宗教和議は、神聖ローマ帝国という1つの政治単位のなかに、従来のカトリック教会とはまた別に新しい教会としてルター派教会(ルーテル教会)を認め、2つの信仰共同体に対等な法的地位を認めたことに画期性が認められる。ここでは、個人における信教の自由は保障されるべくもなかったが、それにもかかわらず国制における宗教多元化の第一歩だったからである。他方、カトリック教会も中世以来の世俗権力を有しており、トリアー、ケルン、マインツの大司教は神聖ローマ帝国選帝侯でもあった。このようにドイツの領邦教会制では、中世の国家・教会関係が、大枠においては継承されたのであった。 ルター派教会はドイツからさらに北方の諸地域へ広がり、現在でもなおデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、フィンランドでは「国教会」としての地位を得ている。これらの地域では、カトリックからルター派へ信仰が置き換わったものの、2つの教会間に強い同延性が認められた。これらの地域で教会堂の内部にルターの巨大な立像を見かけることが多いのも、そうした同延性の原則が保持されてきた現れとみなせる。
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