領邦教会制度終焉後(第1次世界大戦後)の新組織
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「ラインラント福音主義教会」の記事における「領邦教会制度終焉後(第1次世界大戦後)の新組織」の解説
1920年に発効したヴェルサイユ条約によってオイペンとマルメディ地区がドイツからベルギーに割譲されたため(現在のリエージュ州ドイツ語共同体)、1922年10月1日にオイペン、ケルミス、マルメディ、ザンクト・フィートにあった福音主義共同体は古プロイセン合同福音教会ラインラント(プロヴィンツ)州教会アーヘン教会地区から切り離され、ベルギー福音主義合同教会に移った。 第1次世界大戦後、ドイツ帝国が終焉すると同時に、領主による教会支配(summus episcopus)も終わった。その結果、プロイセンの領邦教会は、教会統治の変更を強いられた。古プロイセン領邦教会は1922年に新教憲を制定し、古プロイセン合同福音主義教会(EKapUもしくはApU)と改称した。この教会名称は新教会の自己意識を表現していた。ヴァイマル憲法による政教分離原則によって、古プロイセン福音主義教会は国教会として理解することは出来なかった。プロイセンという国名を使わずに、ルター派と改革派教会の合同教会という古プロイセンという新名称を導入した。(プロヴィンツ)州教会は最高宗務局によって管理運営されていたが、1922年以降、(プロヴィンツ)州教会総会から選ばれた常議員会によって管理運営が為されるようになった。教会総会はプレゼスと呼ばれる議長職を選出し、聖職者である総地区長が霊的指導の最高責任者を務めた。 1933年7月23日の教会選挙で、国家社会主義に同調したドイツ的キリスト者が勝利し、(プロヴィンツ)州教会総会の過半数を押さえた。多数を占めたドイツ的キリスト者の総会議員たちは州教会組織を破壊し壟断した。そのため、ラインラント(プロヴィンツ)州教会は破壊された教会と呼ばれた。1934年5月29日から31日まで、ドイツ的キリスト者による教会支配に反対する者たちを中心にしてヴッパータール・バルメンで告白教会第1回総会が開催され、バルメン宣言が出された。 1934年10月1日、ラインラント(プロヴィンツ)州教会は宗務局をコブレンツからデュッセルドルフに移転させた。同様に1934年になって、オルデンブルク大公国に属していた旧ビルケンフェルト侯国領地域(現在のラインラント=プファルツ州ビルケンフェルト郡)にあった福音主義教会共同体が、オルデンブルクからラインラント(プロヴィンツ)州教会に所属変更になった。これらの教会共同体は現在、オーベレ・ナーエ教会地区に属している。
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