第1回総会
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第1会期(Sessio Prima:1962年10月11日 - 12月8日)は、10月13日の第1回総会 (prima congregatio generalis) と共に開かれた。第1回総会は、委員会の委員選挙が行われるはずだった。10の委員会はそれぞれ25人の委員を置き、教皇による選任は委員長10人に加え、各委員会の24委員のうち8人ずつ合計80人とし、公会議が委員会ごとに残る16委員ずつ、すなわち計160人の委員を選ぶ予定であった。 世界中至る所から集まった司教たちの大半は互いに初対面で、知己があってもわずかであった。そこでお互いを知らない司教2400人のために、教皇庁は特別専門委員会の委員として誰が適任なのか提案した。 フェリチ枢機卿は参列した司教たちに完全な選ぶ自由を残しながら、第2バチカン公会議準備委員会の委員名簿を配布した。既に公会議の準備に携わってきた、経験を積んだ専門家であり、自由に適任者を選ぶ助けになるという理由からであった。教皇庁が選んだ名簿から教父たちによってすべて選択されることが望ましかった。事務総長のフェリチ大司教は、委員たちの選挙に直ぐ入るように教父たちに指示した。 しかし教皇庁の予期しない出来事が起きた。公会議の初日から、公会議教父たちの大部分は何か異常なことが起きていると感じたのである。準備委員会は教皇庁職員が構成し、議事運営方法はその提案に沿って進むはずであったが、リールのリエナール大司教が異議を唱えたからだ。リエナールがマイクを取り発言しようとすると、議長であったティスラン枢機卿は強く制止せず、マイクを取ったリエナールは、フェリチの名簿は司教らの自由を奪う教皇庁からの圧迫であると、大きな声で非難して拍手喝采を受けた。フェリチはこれに公会議事務総長として反対の考えだったが、つぎに演説したケルンのフリンクス大司教がリエナールを支持すると更なる拍手喝采を受けた。最初の議長のティスランは10月16日まで選挙延期を宣言した。この「クーデター」を計画した枢機卿たちは、既にライン川周辺の中部ヨーロッパ作成の候補者名簿を準備していた。それは、リベラル派の名簿であった。 こうして第1回総会は、わずか20分で議事を終了し閉会した。オランダの或る司教は、公会議会場から退場しつつ友人の司祭に「私たちの最初の勝利だった!」と叫んだ。
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