第1回総選挙後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/14 05:27 UTC 版)
「インドネシア社会党」の記事における「第1回総選挙後」の解説
1955年9月29日に実施された総選挙では、PSIは得票率わずか2.0%で大敗した。その後、議会制民主主義を停止して「指導される民主主義」を掲げたスカルノに対して、その独善的な政治運営を批判し、シャフリルはスカルノの「政敵」として対立した。スカルノとシャフリルの対立のさなかで生じたのが、1958年のスマトラ反乱であった。 インドネシアでは、独立戦争期から権力の分散化が進んだ。スマトラでも地方軍が「軍閥」化し、中央政府との対決姿勢を強めており、1958年2月15日、スカルノ政権に対して、インドネシア共和国革命政府 Pemerintah Revolusioner Republik Indonesia(略称PRRI)樹立を宣言した。この「反乱」にマシュミ関係者とともにPSIからもメンバーが参加し、スカルノの退陣を要求した。 スカルノ政権は1ヶ月ほどでこの反乱を鎮圧し、1959年末の大統領令・大統領決定によって、マシュミとともにPSIの政党活動を禁止した。また、シャフリル自身は反乱勢力に加担しなかったものの、1962年3月に逮捕された。 このようにシャフリル・PSI・マシュミを政治的に葬り去ったことにより、スカルノの「指導される民主主義」は確立するかに思われたが、1965年の「9月30日事件」によってスカルノは失脚した。
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