第1回節度使
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『続日本紀』巻第十一には、天平4年(732年)8月、遣唐使多治比広成らの任命記事に続けて、 正三位藤原朝臣房前を東海・東山二道節度使とす。従三位多治比真人県守を山陰道節度使。従三位藤原朝臣宇合を西海道節度使。道別に判官(はんぐゎん)四人、主典(さうくゎん)四人、医師(くすし)、陰陽師(おむやうし)一人。 とあり、さらに続けて以下のような詔を出した。「東海・東山2道および山陰道の諸国の兵器・牛馬は、何れも他所に売り与えてはならない。これは一切禁断して国の境界から出させてはいけない。しかし、決まって公に進上する牧の牛馬はこの限りではない。ただし、西海道の場合は『恒の法』にしたがえ。また節度使が管轄する諸国の軍団の、幕(ばく)・釜(ふ)が不足していることがあれば、今年中に京に進上する官物の一部を留保し、それを代金に当てて購入し、速やかに補充させよ。また、四道の兵士は、令によって徴発し、人数は国内の正丁数の四分の一程度とせよ。その兵器は旧き物を修理して用いよ。また、百石以上を積載することのできる船を造れ。また便宜を図って、籾を造り、塩を焼け。また筑紫(九州)の兵士は、課役を何れも免じる。その白丁(無位無官の良民)は、調を免じて庸を納めさせる。勤務年限の多寡は勅の処分に従う。また、節度使以下、傔人以上のものには、何れも剣を佩かせる。その管下の諸国の人は習得をすると、三色の何れかにはいることができる。一つは博士で、生徒の多少を以て三等とする。上等には田1町5段を給う。中等には1町。下等には5段。ほかの2つは兵士で、毎月試験を受けて、上等を得た人には庸の綿2屯を賜う。中等には1屯」 また、山陰道節度使判官巨曾倍朝臣津嶋と、西海道判官佐伯宿禰東人に、外従五位下を授けた、ともある。 天平4年の節度使は、同年8月11日の遣新羅使角家主の帰朝6日後に設置されているところから、この時の遣新羅使の情報により、唐・新羅・渤海の動向を含めた国際関係の緊張に備え、西辺の武備を堅固なものにする目的があったものと推定される。山陰・西海の節度使は直接西辺の防衛強化につとめ、東海・東山の節度使は、二回目の例から考えて、西海へ赴任するべき東国の兵士の動員、船舶の準備などにあたったものと思われる。 なお、時代は下るが、『続紀』牧第三十六にある、宝亀11年7月の光仁天皇の勅によると、 安きときにも危(あやふ)きを忘れぬは古今(こきむ)の通典なり。縁海(うみそひ)の諸国(くにぐに)に仰せて、勤めて警固せしむべし。その因幡・伯耆・出雲・石見・安芸・周防・長門等の国は、一(もは)ら天平四年の節度使従三位多治比真人県守らが時の式に依りて、勤めて警固せよ。また大宰は、同年(おなじきとし)の節度使従三位藤原朝臣宇合が時の式に依るべし とあり、山陰・山陽両道7国および大宰府管内について、天平4年の節度使の時の式により警固すべしとされており、天平の時の山陰道節度使の管轄区域は山陽道の安芸国・周防国・長門国まで及んでいたことも分かる。 『続紀』巻第十一によると、天平4年の節度使は、「諸道の節度使の事、既に訖(おわ)りぬ。是に国司主典已上をしてその事を掌(つかさど)り知らしむ」として、天平6年4月に停止されている。これは海辺の防衛、兵力動員の体制がいちおう完成したか、あるいは災異により人民の負担の軽減をはかったためと考えられる。これに呼応して、東海道・東山道・山陰道の諸国に牛馬の売買をするのに、国の境を出て行うことを許す、とあり、諸国の健児・儲士・選士に田租とあわせて雑徭の半分を免除するともある。
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