近代ドイツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:11 UTC 版)
ナポレオンの侵攻によって1806年のライン同盟が成立し、神聖ローマ帝国は消滅した。この結果、領邦国家は、法的には他者に従属しない存在となった。そのほかにも神聖ローマ帝国において次のことが起こり、中世的な身分秩序は完全に崩壊した。世俗化(Säklarisation)により聖界諸侯の領邦は廃止され、陪臣化(Mediatisierung)によりすべての聖界諸侯と多くの俗界諸侯が、皇帝ではなく領邦君主からレーン権(Lehnsrecht)を封じられることになった。つまり、帝国直属の等族(reichsunmittelbare Stände)ではなくなった。結果として、残存した領邦は大規模化した。なお、ドイツではsouverainetieに相当する語は18 世紀までなく、19世紀初めにナポレオンの影響を受けて外国語Souveränitätが輸入された。 19世紀ドイツでは理性主権、国家主権などの主張があり、また法主権説では主権の所在の棚上げをした。ドイツでは、君主主権説と人民主権説(Volkssouveränität)が対立し、その帰属主体をあえて問わないという問題回避的な国家主権説が唱えられた。ヘーゲル以来、ドイツでは国家を主権の主体とし、主権を国家権力、国家意思、国家人格の特性と主張してきた。しかし、国家主権説の真意は専制的君主主権へのアンチテーゼであるとされる。ゲオルグ・イェリネックは主権的国家権力は独立・最高の権力であり、国際法においても国家はただ自己の意志にのみ服するとし、また国家は人格を有する法主体であるとする国家法人説を主張し、。 ドイツ帝国時代の国法学・国家学についてカール・シュミットはアルブレヒトらの国家法人説も国家主権説も、憲法制定権力の主体と政治的単一体の代表者に関する問題を回避するものにすぎないと批判した。 またアドルフ・ラッソン(1832-1917)も主権は国家の自己目的の具現化したもので、国家は主権を有する主体として法秩序に服する必要はないとした。ラッソンは異なる民族を同一の法の下に服せしめることは非性的であるとし、国民の自由を原理とする国際関係には法が存在しないとして国際法への懐疑論を主張した。ただし、平和は諸国家の共通の利益であると述べており、また勢力均衡が平和の条件であるとする。 1899年、第一回ヘーグ平和会議でドイツ代表は常設仲裁裁判所裁判官名簿作成についてドイツ国家の主権を傷つけるとして反対し、またドラゴーも公債発効は主権行為であり、国家主権の名において外国の参加を排除するとした。
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