ドイツへの亡命、コンラート3世による遠征の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 02:43 UTC 版)
「ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ」の記事における「ドイツへの亡命、コンラート3世による遠征の失敗」の解説
ボヘミア宮廷で居候として過ごした後、ヴワディスワフ2世は妻の異父兄であるローマ王コンラート3世の庇護を受けた。ヴワディスワフ2世は間もなくドイツに移住し、コンラート3世に忠誠を誓った上で、ポーランド大公位を回復してくれるように頼み込んだ。ポーランドの年少諸公達に対する懲罰遠征は1146年頃に起きたが、オドラ川の氾濫のせいでコンラート3世が派遣したブランデンブルク辺境伯アルブレヒト1世とマイセン辺境伯コンラート1世の軍隊は遠征に失敗した。 ヴワディスワフ2世は復権の望みを捨てなかったが、コンラート3世の第2回十字軍遠征が始まったため、復権の実現は先延ばしになった。この時期、ヴワディスワフ2世はザクセンのアルテンブルクを一時的な所領として与えられていた。ドイツの支援を待つことなく、妃アグネスと共にローマに赴いて教皇に支援を要請したが、失敗に終わった。
※この「ドイツへの亡命、コンラート3世による遠征の失敗」の解説は、「ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ」の解説の一部です。
「ドイツへの亡命、コンラート3世による遠征の失敗」を含む「ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ」の記事については、「ヴワディスワフ2世ヴィグナニェツ」の概要を参照ください。
- ドイツへの亡命、コンラート3世による遠征の失敗のページへのリンク