第2回十字軍遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:38 UTC 版)
「アリエノール・ダキテーヌ」の記事における「第2回十字軍遠征」の解説
1147年の第2回十字軍にアリエノールはアキテーヌ諸侯を説得して参加者を増やし、援助と引き換えにフォントヴロー修道院など教会への寄進や特権の更新も盛んに行い資金を調達、アキテーヌ軍を引き連れ夫と共に参加した。信仰篤い上、1143年の惨劇に対する贖罪を十字軍に求めていたルイ7世に対し、アリエノールは物見遊山目的であり、王妃の随員や衣類などの荷物だけで部隊が形成された上、その護衛部隊も必要となり、進軍の多大な妨げになっていた。こうしたことから、フランス軍がアナトリア半島(小アジア)でルーム・セルジューク朝軍に惨敗した原因ともなった。内実はともかく、国王夫妻はベルナルドゥスの支持を背景にシュジェールや重臣たちの反対を押し切って5月12日にサン=ドニを出発した。 フランス軍は10月4日に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに到着、皇帝マヌエル1世に歓迎されしばしの休息に浸った。ルイ7世・アリエノール夫妻も皇帝に迎えられ、ルイ7世は質素な生活習慣を堅持して過ごしたが、アリエノールは華麗な宮廷文化に心奪われ、フランスと違う開放的な雰囲気とマヌエル1世の魅力に惹かれた。しかし十字軍兵士と現地人の間で衝突が頻発したり、滞在で軍資金が底をついたルイ7世は本国を守るシュジェールに資金調達依頼を出す有様で、マヌエル1世がセルジューク朝に内通しているという疑いもルイ7世の不安を掻き立てた。 やがて先発していたローマ王コンラート3世の軍が小アジアで東ローマ帝国の裏切りに遭い、誘導されたルートで出くわしたセルジューク軍に敗れ退却(ドリュラエウムの戦い)、敗残兵がニカイアでフランス軍と合流した。惨状を知ったルイ7世は小アジアの南側、エーゲ海と地中海に沿ったルートを進み、アンタルヤ(アダリア)港へ向かうことにしたが、1148年1月6日にピシディア峡谷に到着した所で待ち伏せていたセルジューク軍の奇襲を受け本隊は大損害を受け、後衛部隊を指揮していたルイ7世は救援に向かい奮戦、敵軍は長時間戦闘で疲弊していたため夜に撤退した(カドムス山の戦い(英語版))。戦いは1000人近い犠牲者を出し、アリエノールの側近ジョフロワ・ド・ランコン(英語版)が率いる先発部隊は勝手に本隊と遠く離れて戦闘に参加しなかったことが問題となり、ランコンはポワティエへ召還された。アリエノールのこの戦いの動向は不明だが、ランコンの主君であるため彼女にも非難がおよび、ルイ7世の側近たちから恨みを抱かれた。 3月19日にアンタルヤから海路アンティオキアに入ったフランス軍は一息ついた。そこでアリエノールが叔父のアンティオキア公レーモンと共に、エデッサ伯領であるアレッポとカエサリア奪回することを主張した。この時アリエノールとレーモンは親密であり、情を通じた(近親相姦)とされる説、南フランス風の愛情表現とする説がある。ルイ7世はこれに反対し、アリエノールを拘束してエルサレムに向かった(エルサレム巡礼にこだわったから、エデッサ奪回はレーモンだけ得をすることに反対したから、自分の家臣共々アンティオキアに残ることを主張したアリエノールに我慢ならなかったとも)。レーモンは戦死し、7月のダマスカスへの攻撃(ダマスカス包囲戦)も失敗に終わって、第2回十字軍はそこで解散した。ルイ7世夫妻は1149年の復活祭までエルサレムに留まり、2人は海路イタリアを経由、パレルモでシチリア王ルッジェーロ2世に歓迎され、トゥスクルム(英語版)で教皇エウゲニウス3世との面会を経て11月11日にフランスに帰国した。
※この「第2回十字軍遠征」の解説は、「アリエノール・ダキテーヌ」の解説の一部です。
「第2回十字軍遠征」を含む「アリエノール・ダキテーヌ」の記事については、「アリエノール・ダキテーヌ」の概要を参照ください。
第2回十字軍遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:41 UTC 版)
「ルイ7世 (フランス王)」の記事における「第2回十字軍遠征」の解説
1144年末にエデッサ伯領がザンギーに奪われたとの報せがヨーロッパに届くと、ルイ7世は十字軍参加に応じて2年余りを準備に費やし、1147年にベルナルドゥスの勧誘で知られる第2回十字軍に参加した。アリエノールもアキテーヌ諸侯を説得して参加者を増やし、援助と引き換えにフォントヴロー修道院など教会への寄進や特権の更新も盛んに行い資金を調達、アキテーヌ軍を引き連れ夫と共に参加した。信仰篤い上、1143年の惨劇に対する贖罪を十字軍に求めていたルイ7世に対し、アリエノールは物見遊山目的であり、王妃の随員や衣類などの荷物だけで部隊が形成された上、その護衛部隊も必要となり、進軍の多大な妨げになっていた。こうしたことから、フランス軍がアナトリア半島(小アジア)でルーム・セルジューク朝軍に惨敗した原因ともなった。内実はともかく、国王夫妻はベルナルドゥスの支持を背景にシュジェールや重臣たちの反対を押し切って5月12日にサン=ドニを出発した。 フランス軍は10月4日に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープルに到着、皇帝マヌエル1世に歓迎されしばしの休息に浸った。ルイ7世・アリエノール夫妻も皇帝に迎えられ、ルイ7世は質素な生活習慣を堅持して過ごしたが、アリエノールは華麗な宮廷文化に心奪われ、フランスと違う開放的な雰囲気とマヌエル1世の魅力に惹かれた。しかし十字軍兵士と現地人の間で衝突が頻発したり、滞在で軍資金が底をついたルイ7世は本国を守るシュジェールに資金調達依頼を出す有様で、マヌエル1世がセルジューク朝に内通しているという疑いもルイ7世の不安を掻き立てた。 やがて先発していたローマ王コンラート3世の軍が小アジアで東ローマ帝国の裏切りに遭い、誘導されたルートで出くわしたセルジューク軍に敗れ退却(ドリュラエウムの戦い)、敗残兵がニカイアでフランス軍と合流した。惨状を知ったルイ7世は小アジアの南側、エーゲ海と地中海に沿ったルートを進み、アンタルヤ(アダリア)港へ向かうことにしたが、1148年1月6日にピシディア峡谷に到着した所で待ち伏せていたセルジューク軍の奇襲を受け本隊は大損害を受け、後衛部隊を指揮していたルイ7世は救援に向かい奮戦、敵軍は長時間戦闘で疲弊していたため夜に撤退した(カドムス山の戦い(英語版))。戦いは1000人近い犠牲者を出し、アリエノールの側近ジョフロワ・ド・ランコン(英語版)が率いる先発部隊は勝手に本隊と遠く離れて戦闘に参加しなかったことが問題となり、ランコンはポワティエへ召還された。アリエノールのこの戦いの動向は不明だが、ランコンの主君であるため彼女にも非難がおよび、ルイ7世の側近たちから恨みを抱かれた。 3月19日にアンタルヤから海路アンティオキアに入ったフランス軍は一息ついた。そこでアリエノールが叔父のアンティオキア公レーモンと共に、エデッサ伯領であるアレッポとカエサリア奪回することを主張した。この時アリエノールとレーモンは親密であり、情を通じた(近親相姦)とされる説、南フランス風の愛情表現とする説がある。ルイ7世はこれに反対し、アリエノールを拘束してエルサレムに向かった(エルサレム巡礼にこだわったから、エデッサ奪回はレーモンだけ得をすることに反対したから、自分の家臣共々アンティオキアに残ることを主張したアリエノールに我慢ならなかったとも)。レーモンは戦死し、7月のダマスカスへの攻撃(ダマスカス包囲戦)も失敗に終わって、第2回十字軍はそこで解散した。ルイ7世夫妻は1149年の復活祭までエルサレムに留まり、2人は海路イタリアを経由、パレルモでシチリア王ルッジェーロ2世に歓迎され、トゥスクルム(英語版)で教皇エウゲニウス3世との面会を経て11月11日にフランスに帰国した。 第2回十字軍は失敗だったが、進展した出来事もある。1つ目はテンプル騎士団に関することで、十字軍出発前にテンプル騎士団へパリ郊外の土地を寄進、タンプル塔などが建てられたこの地を中心にテンプル騎士団はフランス管区を拡張、ルイ7世に同行してカドモス山の戦いで奮戦する働きを見せ、東方における重要戦力として注目された。2つ目はフランスの内政で、1145年から1147年にかけて国王会議(クリア・レギス)を開催、十字軍で不在の間王国の平和を確保するため大諸侯の支援と忠誠を取り付けた。以後もルイ7世は重要問題で国王会議を開き、1152年のアリエノールとの離婚協議、1155年の王国全土に適用する10年間の平和決議、1178年に息子フィリップ(後のフィリップ2世)の戴冠式挙行などを決めた。国王会議はフィリップ2世の代に発展して財政・司法が分離され、王権拡大に伴い地方組織と共に拡大していった。
※この「第2回十字軍遠征」の解説は、「ルイ7世 (フランス王)」の解説の一部です。
「第2回十字軍遠征」を含む「ルイ7世 (フランス王)」の記事については、「ルイ7世 (フランス王)」の概要を参照ください。
- 第2回十字軍遠征のページへのリンク