ドイツへの亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/16 22:54 UTC 版)
「ミェシュコ1世プロントノギ」の記事における「ドイツへの亡命」の解説
父が大公の地位を追われた1146年以後、ミェシュコとその家族はザクセンのアルテンブルクに住んでいた。この都市はヴワディスワフ2世が義兄のローマ王コンラート3世から一時的な領地として与えられたものだった。亡命生活の間、ミェシュコはミヒャエルスベルクとバンベルクで学んだ。ところが一時的な亡命生活だったはずのヴワディスワフ2世は、1159年にアルテンブルクで客死してしまった。息子達は父の遺産を回復すべく戦い続け、4年後の1163年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の政治介入によって、ミェシュコと兄のボレスワフ1世(長身公)はシロンスクに帰還した。
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