ドイツへの従属
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「ドイツへの従属」の解説
詳細は「ユーゴスラビア侵攻」、「エル・アラメインの戦い」、「アングロ・イラク戦争(英語版)」、および「シリア・レバノン戦役」を参照 1941年1月18日、想定以上に捗々しくない前線の状態に失意を覚えながら、ムッソリーニはベルヒテスガーデンのベルクホーフで開かれた独伊首脳会談に向かった。ムッソリーニを尊敬するヒトラーは心からの労わりの言葉を口にし、イタリア王国軍の苦境についても擁護したが、同時に今後は枢軸国の戦争指導に齟齬を生じさせないことを求めた。会談でムッソリーニは自身の戦争指導を改める意思を固め、会談で枢軸国陣営内でドイツとヒトラーが主導する戦争計画に従属する姿勢を鮮明にした。 ユーゴスラビア王国で国王ペータル2世がドイツの度重なる内政干渉を拒絶して親独派を一掃する事件が起きると、激怒したヒトラーは直ちに軍を南下させてユーゴスラビア侵攻を行った。ムッソリーニは軍に助力を命令し、ヴィットーリオ・アンブロシオ(英語版)の伊第2軍がイストリア半島からユーゴスラビア領へ進み、南下した独第2軍とユーゴスラビア第7軍を挟撃してスロベニア地方を占領した。またフィウーメから南にアドリア海沿岸部にも進軍してダルマチア地方も占領した他、北部アルバニアでもアレッサンドロ・ピルジオ・ビロリ(イタリア語版)の伊第9軍が動員された。戦いはドイツ・イタリア・ハンガリーによる枢軸軍の圧勝となり、ユーゴスラビア王国は解体された。軍事的な存在感を発揮することが出来たムッソリーニは、分割案でスロベニアのドイツ併合を認める代わりにダルマチア沿岸部併合によるダルマチア・イタリア人の統合という重要な政治的成果を勝ち取った。 他の占領地の内、ムッソリーニとヒトラーはモンテネグロ地方について、イタリア王妃であるモンテネグロ王女エレナの血筋からペトロヴィチ=ニェゴシュ家の王朝を復興することで同意を結んだ。ナチスやファシスト党に反対していたグラホヴォ=ゼータ大公ミハイロ・ペトロヴィチが協力を拒絶するというアクシデントが起きたが、同地が「イタリアの領域」であるという協定は動かず、エレナの夫であるイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がアルバニア、エチオピアにつづいてモンテネグロも事実上君主を兼任した(サヴォイア朝モンテネグロ王国(イタリア語版))。ヒトラーは後にミハイロを反伊・反独主義者として強制収容所に収監したが、エレナの要請を受けたムッソリーニの取り成しで釈放している。 ダルマチアを除いたクロアチア地方にはクロアチア人国家が建国されたが、こちらも自身が長年支援していたクロアチア人団体ウスタシャの指導者アンテ・パヴェリッチとサヴォイア家のアオスタ公アイモーネの両者を送り込み、それぞれクロアチア国王(アイモーネ)とクロアチア首相(パヴェリッチ)に就任させて傀儡化した(クロアチア独立国)。従属国アルバニアの大アルバニア主義も巧みに活用され、コソボ編入を認めさせて影響下に置くなどユーゴスラビア分割で最も実り豊かな成果を得ることになった。 ユーゴスラビアを片付けたヒトラーはブルガリアを枢軸側で参戦させると、そのままイタリア・ギリシャ戦争にも参戦してギリシャ軍の側面を突き、総崩れに追い込んだ(マリータ作戦)。しばしばギリシャへの介入が密かに計画していた対ソ奇襲の延期に影響を与えたとする有名な俗説があり、ヒトラー自身も大戦末期に主張している。しかし大半の歴史家はマリータ作戦のバルバロッサ作戦に対する影響はなく、延期は仏軍から鹵獲した輸送車両の配備に手間取ったことや、晩春の豪雨による飛行場建設の遅れなどが原因であると結論している。 ギリシャ占領地ではドイツ・イタリア・ブルガリア共同統治のギリシャ国が設置され、統治領域の大部分をイタリアが担当してピンドス公国などを樹立した。ムッソリーニは旧ユーゴスラビア領にも多数の陸軍・警察軍部隊を駐留させ、アルバニア、モンテネグロ、クロアチア以外にもセルビア系の民兵組織チェトニクを支援するなど、大戦後半まで同地の治安維持に貢献した。 アフリカ戦線ではヒトラーから提案された独伊両軍での北アフリカ遠征を申し受ける形でドイツアフリカ軍団を援軍として受け取り、後任の陸軍参謀総長となったウーゴ・カヴァッレーロ陸軍大将を説得して独軍の実質的な独立指揮権も容認した。バルカン情勢の決着後は戦力の増派にも着手して第185空挺師団『フォルゴーレ』(英語版)、第102機械化師団『トレント』(英語版)、第131戦車師団『チェンタウロ』(英語版)などをイタリア本土、バルカン半島から北アフリカへ転出させた。独伊両軍はイギリス軍を押し返してエジプト領エル・アラメインまで進軍し、中東での枢軸軍と連合軍の戦いも本格化した(アングロ・イラク戦争、シリア・レバノン戦役)。 ドイツへの従属はある時点までは妥当な判断と言えたが、英本土を放置したままにヒトラーが独ソ戦という二正面作戦を開始すると目算は再び崩れ始めた。 「独ソ戦」および「イタリア・ロシア戦域軍」も参照 独伊に跨る領域を率いたローマ皇帝フリードリヒ1世 (フェデリーコ1世)の渾名であり、イタリア語で赤い髭を意味するバルバロッサの名を冠した奇襲作戦を知ったのは、攻撃が開始された午前0時から3時間後のことであった(バルバロッサ作戦、英語版)。ハンス・ゲオルク・フォン・マッケンゼン駐伊大使からヒトラーの秘密連絡を受け取ったムッソリーニは書面を呼んで「これは狂気だ」と呻いたという。同年末には日本がコタバル上陸(マレー作戦)を契機にアメリカと交戦状態に突入、ムッソリーニはヒトラーのドイツ対米宣戦につづいてイタリアの対米宣戦布告を行った。日本とアメリカの参戦で戦線はヨーロッパから広がって文字通りの世界大戦となった。「英仏と独伊」の戦争は「米ソ英と日独伊」の大戦へと移り変わり、参戦時とは全く異なった様相になっていった。 枢軸国・親枢軸国での協力は段階的に開始され、ルーマニア、フィンランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ヴィシーフランス、スペインなどが援軍を派兵した。1941年6月22日、ムッソリーニもヒトラーへの協力を提案し、ジョヴァンニ・メッセ陸軍中将を指揮官とする「イタリア・ロシア派遣軍」(Corpo di Spedizione Italiano in Russia、CSIR)を派遣した。メッセ中将は騎兵連隊や自動車化師団などを率いて南方軍集団・独第11軍の指揮下に入り、ペトロフカやスターリノの占領など独ソ戦初期の電撃戦で軍功を上げ、ヒトラーからも騎士鉄十字勲章を授与されている。 ドイツを中心とした枢軸軍は一挙にウクライナから白ロシアまでを占領下に置く目覚ましい勝利を挙げ、非現実的に見えたヒトラーの生存権構想や人種的世界観が現実になるかのように思えた。ムッソリーニは援軍派遣の前に「一番の心配は我々が訪れる前に戦争が終わるかもしれないということだ」とまで側近に語っている。序盤の戦勝に高揚したヒトラーとムッソリーニは二人でウクライナの前線を電撃訪問し、枢軸国の兵士達から熱烈な歓迎を受けた。ヒトラーにとっては忌むべきスラブ人の巣窟であっても、ムッソリーニにとってはかつて仰いだ存在でもあるレーニンの故国とあってさぞ先進的な国家なのだろうと期待していたが、ヒトラーと閲兵を行ったブレスト・リトフスクは貧相な町並みで失望を覚えている。帰り道では飛行機免許を持つムッソリーニが飛行中に操縦桿を持って運転しており、傍らで見守るヒトラーは心配そうな表情だったという。 1942年、ソヴィエト軍が頑強な抵抗を重ねて東部戦線が長期化し、資源地帯を切り崩すべく枢軸軍のブラウ作戦が開始された。既にムッソリーニの戦争計画に疑問を抱いていたメッセはヒトラーの要請に応じて戦力増派を進めるムッソリーニと対立して解任され、後任の指揮官に北アフリカからイータロ・ガリボルディ陸軍大将を転任させ、戦力も9個師団に増派して伊第8軍(イタリア・ロシア戦域軍)へ拡大した。伊第8軍を含めた枢軸同盟軍は旧・独南方軍集団(A軍集団とB軍集団)とコーカサス地方の油田地帯に進み、ドン河沿いに戦線を構築してスターリングラードを包囲した。 同地の攻略にヒトラーが固執して同盟軍の守る陣地が手薄になった隙を突いてソ連軍の一斉反撃が始まり、1942年11月中にルーマニア第3軍・第4軍が壊滅して独第6軍が包囲された(ウラヌス作戦)。伊第8軍はハンガリー第2軍と戦線を懸命に支えたが、第二次攻勢でハンガリー第2軍が壊滅するとアルピーニ師団(山岳師団)を残して後退した(小土星作戦)。アルピーニ師団は翌年まで包囲下の陣地を死守した後、独第6軍の降伏と前後して包囲網を破ってウクライナへ撤収した(ニコラエフカの戦い)。東部戦線の攻守が入れ替わり、対ソ戦もまた対英戦と同じく戦勝による講和はまず有り得ない状態となった。
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