ドイツへの譲歩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:24 UTC 版)
1935年、ヒトラーは、ヴェルサイユ条約の取り決めを一方的に破棄して再軍備と徴兵制の復活を発表した(ドイツ再軍備宣言)。左派政党であるイギリス労働党は、ナチズムへの警戒心と共産主義への理解からイギリスの軍備増強を強く主張したが、イギリス保守党は反共主義のためドイツをソ連に対する防波堤として利用するべくドイツの勢力拡大を黙認した。また、平和主義を求める世論に縛られている各国も、このドイツの行動を黙認した。1936年、ドイツはラインラント進駐を行い、条約は完全な死文となった。1938年にはオーストリアを併合するなど勢力を拡げる。 1938年、ヒトラーがチェコスロバキアの要衝ズデーテン地方を要求したことを受け、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア4カ国の首脳会議がミュンヘンで行われた(ミュンヘン会談)。イギリスのチェンバレン首相は、反共主義のためと、平和主義のためと、戦争準備の不足からドイツの要求をのんだ。なお、チェコスロバキアの代表は、会議に参加することも意見を提出することも認められなかった。 ヨーロッパ中では世界大戦が回避され、平和が訪れたという喜びに包まれた。特に立役者チェンバレン首相は讃えられ、パリでは街のひとつを「チェンバレン」と名付ける動議が提出されたほどであった。
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