ブルンジ王国
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- ブルンジ王国
- Ubwami bw'i Burundi(ルンディ語)
Royaume du Burundi(フランス語)
Koninkrijk Boeroendi(オランダ語)
Königreich Burundi(ドイツ語) -
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←1680年 - 1966年 → (国旗) (国章) - 国歌: Burundi Bwacu
我らのブルンジ
1966年の領土-
公用語 ルンディ語
フランス語
ドイツ語(1890年 ‐ 1916年)
オランダ語(1916年 ‐ 1962年)首都 ブジュンブラ 通貨 ルワンダ・ブルンジ・フラン
ブルンジ・フラン
ブルンジ王国(ブルンジおうこく、ルンディ語:Ubwami bw'i Burundi、フランス語:Royaume du Burundi)は、16世紀頃(1680年という説もある)から1966年まで存続した中部アフリカの国家。現在のブルンジに相当する領域に成立していた。王朝がいつ頃から始まっていたかは定かでないが、16世紀に成立したとの伝承も存在する。
歴史
現在のブルンジに相当する地域には、古くから先住民族の部族長による支配体制が確立していた。しかし、1884年にドイツ帝国の侵攻を受け、その植民地(ドイツ領東アフリカおよびドイツ植民地帝国を参照)となり、白人の支配を受けるようになる。ただし、伝統としての王朝の系譜が途切れることはなかった。
1918年、ドイツの第一次世界大戦における敗戦の結果、隣国のルワンダとともにルアンダ=ウルンディとして再編され、ベルギー領になる。長く苦しい植民地支配の末、第二次世界大戦後に民族自決の機運が高まり、1962年にムワミ(国王)を元首とする伝統的な国家体制のもと独立した。
しかし、クーデターが頻発するなど国情は安定せず、1966年に最後のムワミが廃位され、ミシェル・ミコンベロを指導者とする共和国として再出発する[1]。だが、少数派のツチ族による支配に不満を持つ多数派のフツ族が1972年に大規模な反乱を起こし、約1万人のツチ族を殺害する事件が発生した。その後もクーデターによってジャン=バティスト・バガザが政権を奪取し、軍事独裁を開始するなど政情不安が続いた。
歴代国王
ブルンジの国王はムワミと呼ばれる伝統的な君主号を持つ。同時期には、ルワンダにも同様の国王が存在した。なお、国王の系譜には、伝承に基くものと現代的な系譜学に基くものが存在するため、ここではその2通りを示す。
伝承に基く系譜
- ンタレ1世(1530年 - 1550年)
- ムウェジ1世(1550年 - 1580年)
- ムタガ1世(1580年 - 1600年)
- ムワンブツァ1世(1600年 - 1620年)
- ンタレ2世(1620年 - 1650年)
- ムウェジ2世(1650年 - 1680年)
- ムタガ2世(1680年 - 1700年)
- ムワンブツァ2世(1700年 - 1720年)
- ンタレ3世(1720年 - 1750年)
- ムウェジ3世(1750年 - 1780年)
- ムタガ3世(1780年 - 1800年)
- ムワンブツァ3世(1800年 - 1830年)
- ンタレ4世(1830年 - 1850年)
- ムウェジ4世(1850年 - 1908年)
- ムタガ4世(1908年 - 1915年)
- ムワンブツァ4世(1915年 - 1966年)
- ンタレ5世(1966年 - 1966年)
現代的系譜学に基く系譜
- ンタレ3世(1680年 - 1709年)
- ムウェジ3世(1709年 - 1739年)
- ムタガ3世(1739年 - 1767年)
- ムワンブツァ3世(1767年 - 1796年)
- ンタレ4世(1796年 - 1850年)
- ムウェジ4世(1850年 - 1908年)
- ムタガ4世(1908年 - 1915年)
- ムワンブツァ4世(1915年 - 1966年)
- ンタレ5世(1966年 - 1966年)
脚注
- ^ “Burundi: Fall of the Monarchy (1962 - 1966)”. African Democracy Encyclopaedia Project. 2016年10月15日閲覧。
ブルンジ王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/19 18:40 UTC 版)
ブルンジ王国の王朝がいつ誕生したかは定かではない。だが、それがあったとする最古の証拠では、16世紀に遡るとされる。この頃から、ブルンジは隣国ルワンダと競争しながら拡大していったと言われ、そして、おおよそ1796年から1850年まで国を支配したンタレ四世の下で、彼らの領土は最も大きくなった。ブルンジ王国の形態は階層的な政治体系であり、経済は属国との交流によって特徴づけられた。元首であるムワミは、高級貴族と共に国土のほとんどを支配し、農民には税を要求した。 1856年ごろから、ヨーロッパの探検家と宣教師がブルンジを訪問するようになった。その後、隣国ルワンダは ドイツ帝国の申し受けを受け入れることを決断し、ドイツ領東アフリカの一部となった。しかし、時のブルンジ国王ムウェジ四世はドイツの申し入れを拒否。ヨーロッパ製衣類へのボイコット、そしてヨーロッパ人の圧力への抵抗を決定した。 ムウェジの決定に対しドイツ帝国は陸軍を用いてブルンジを攻撃、大きな損害を与えることに成功。しかし、国王の権力を破壊するまでには至らなかった。だがドイツ軍の侵攻に対して、国内では王国への不満が高まっており、内乱が発生した。そのため次期国王はドイツへの譲歩を強いられた。ブルンジ王国はドイツに植民地とされる代わり、ドイツ軍は国内の反乱の鎮圧を助けた。
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