ブルンジ王国とは? わかりやすく解説

ブルンジ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/06 13:29 UTC 版)

ブルンジ王国
Ubwami bw'i Burundi(ルンディ語)
Royaume du Burundi(フランス語)
Koninkrijk Boeroendi(オランダ語)
Königreich Burundi(ドイツ語)

1680年 - 1966年
国旗国章
国歌: Burundi Bwacu
我らのブルンジ

1966年の領土
公用語 ルンディ語
フランス語
ドイツ語(1890年 ‐ 1916年)
オランダ語(1916年 ‐ 1962年)
首都 ブジュンブラ
国王
1962年 - 1966年 ムワンブツァ4世
1966年 - 1966年ンタレ5世
首相
1962年 - 1963年アンドレ・ムヒルワ
1966年 - 1966年ミシェル・ミコンベロ
変遷
成立 1680年
ドイツ領東アフリカの一部に1890年7月1日
ベルギー委任統治領ルアンダ=ウルンディの一部に1922年7月20日
ベルギーより独立1962年7月1日
共和制に移行1966年11月28日
通貨ルワンダ・ブルンジ・フラン
ブルンジ・フラン

ブルンジ王国(ブルンジおうこく、ルンディ語Ubwami bw'i Burundiフランス語Royaume du Burundi)は、16世紀頃(1680年という説もある)から1966年まで存続した中部アフリカの国家。現在のブルンジに相当する領域に成立していた。王朝がいつ頃から始まっていたかは定かでないが、16世紀に成立したとの伝承も存在する。

歴史

現在のブルンジに相当する地域には、古くから先住民族の部族長による支配体制が確立していた。しかし、1884年ドイツ帝国の侵攻を受け、その植民地(ドイツ領東アフリカおよびドイツ植民地帝国を参照)となり、白人の支配を受けるようになる。ただし、伝統としての王朝の系譜が途切れることはなかった。

1918年、ドイツの第一次世界大戦における敗戦の結果、隣国のルワンダとともにルアンダ=ウルンディとして再編され、ベルギー領になる。長く苦しい植民地支配の末、第二次世界大戦後に民族自決の機運が高まり、1962年ムワミ国王)を元首とする伝統的な国家体制のもと独立した。

しかし、クーデターが頻発するなど国情は安定せず、1966年に最後のムワミが廃位され、ミシェル・ミコンベロを指導者とする共和国として再出発する[1]。だが、少数派のツチ族による支配に不満を持つ多数派のフツ族1972年に大規模な反乱を起こし、約1万人のツチ族を殺害する事件が発生した。その後もクーデターによってジャン=バティスト・バガザが政権を奪取し、軍事独裁を開始するなど政情不安が続いた。

歴代国王

ブルンジの国王はムワミと呼ばれる伝統的な君主号を持つ。同時期には、ルワンダにも同様の国王が存在した。なお、国王の系譜には、伝承に基くものと現代的な系譜学に基くものが存在するため、ここではその2通りを示す。

伝承に基く系譜

現代的系譜学に基く系譜

脚注

  1. ^ Burundi: Fall of the Monarchy (1962 - 1966)”. African Democracy Encyclopaedia Project. 2016年10月15日閲覧。

ブルンジ王国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/19 18:40 UTC 版)

ブルンジの歴史」の記事における「ブルンジ王国」の解説

ブルンジ王国の王朝がいつ誕生したかは定かではない。だが、それがあったとする最古証拠では、16世紀遡るとされるこの頃から、ブルンジ隣国ルワンダ競争しながら拡大していったと言われ、そして、おおよそ1796年から1850年まで国を支配したンタレ四世の下で、彼らの領土は最も大きくなった。ブルンジ王国の形態階層的な政治体系であり、経済属国との交流によって特徴づけられた。元首であるムワミは、高級貴族と共に国土のほとんどを支配し農民には税を要求した1856年ごろから、ヨーロッパ探検家宣教師ブルンジ訪問するようになったその後隣国ルワンダドイツ帝国申し受け受け入れることを決断しドイツ領東アフリカ一部となった。しかし、時のブルンジ国王ムウェジ四世ドイツ申し入れ拒否ヨーロッパ衣類へのボイコット、そしてヨーロッパ人圧力への抵抗決定した。 ムウェジの決定対しドイツ帝国陸軍用いてブルンジ攻撃大きな損害与えることに成功。しかし、国王権力破壊するまでには至らなかった。だがドイツ軍侵攻に対して国内では王国への不満が高まっており、内乱発生した。そのため次期国王ドイツへの譲歩強いられた。ブルンジ王国はドイツ植民地とされる代わりドイツ軍国内の反乱鎮圧助けた

※この「ブルンジ王国」の解説は、「ブルンジの歴史」の解説の一部です。
「ブルンジ王国」を含む「ブルンジの歴史」の記事については、「ブルンジの歴史」の概要を参照ください。

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