国内の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 07:04 UTC 版)
「アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)」の記事における「国内の反乱」の解説
アルフォンソ10世は帝位を獲得する運動に際して国を空けることが多く、王の留守は反乱の温床となった。貴族の一部はアルフォンソ10世の弟フェリペを擁して反乱を起こした。 1275年にアルフォンソ10世が教皇庁に赴いた隙をついて、マリーン朝の君主アブー・ユースフ・ヤアクーブがイベリア半島に上陸した。1275年9月にマリーン朝とナスル朝の連合軍はエシハでカスティーリャ軍を破り、アルフォンソ10世の義弟であるトレド大司教サンチョが戦死する。反乱の鎮圧に奔走した長男のフェルナンド王太子はアンダルシアへ向かう途中のシウダー・レアルで病死、翌1276年にヤアクーブが退却するまでの間、フェルナンドの弟で次男のサンチョ王子(後のサンチョ4世)が代わりにセビリアへ到着、イスラム教徒への抗戦を指導した。 フェルナンドの急死により、遺児でアルフォンソ10世の孫アルフォンソ(スペイン語版)、フェルナンド(スペイン語版)兄弟とサンチョが王位継承権を巡って国内は分裂する。フランスを後ろ盾としてアルフォンソを擁立する勢力と、サンチョを支持する勢力に分かれ、アルフォンソ10世も優柔不断な態度を取り状況は悪化した。1282年にサンチョはアルフォンソ10世の廃位と自らの即位を宣言した。サンチョは国内の貴族、都市、聖職者、騎士修道会とポルトガル、アラゴン両王国からの支持を受け、アルフォンソ10世はセビリアに追われた。セビリアに逃れたアルフォンソ10世はサンチョを廃嫡し、マリーン朝に援軍を求めた。アルフォンソ10世とヤアクーブはコルドバでサンチョを包囲し、マドリードに攻撃をかけた。 しかし、マリーン朝からの援軍も状況の打開には結びつかなかった。アルフォンソ10世はもはやいくつかの都市にしか支持されず、1284年に62歳でセビリアで没した。死後、セビリア大聖堂に埋葬された。
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