朝鮮半島と中国大陸の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:08 UTC 版)
「白村江の戦い」の記事における「朝鮮半島と中国大陸の情勢」の解説
6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。 『日本書紀』には倭国は半島南部の任那を通じて影響力を持っていたとの記述がある。その任那は562年以前に新羅に滅ぼされた。 475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗沘へ遷都した。当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から援軍を送られている。 一方、581年に建国された隋は、中国大陸を統一し文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征(隋の高句麗遠征)を行ったもののいずれも失敗した。その後隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅んだ。そして新たに建国された唐は、628年に国内を統一した。唐は二代太宗・高宗の時に高句麗へ3度(644年・661年・667年)に渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵)征服することになる。
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