朝鮮半島と日本列島との関係
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「文禄・慶長の役」の記事における「朝鮮半島と日本列島との関係」の解説
倭寇の襲来におびえる高麗では、軍備が荒廃して満足に戦えず、倭人(投化倭人)を巨済島や南海県などに住まわせ、時に食料を供給することで鎮撫しようとしたが、倭寇はそこを新たな出撃地としただけで海賊活動はやめず、この政策は完全に失敗した。倭寇は府庫の米だけなく奴婢の獲得を狙うようになり、逃亡した禾尺・才人といった高麗賤民なども倭寇の側に合流した。1375年には家臣団を連れて投降した倭人の藤経光を誘殺しようとして失敗し、逆に激しい報復を受けた。以後、倭寇は暴虐の度をむしろ高めて「倭寇猖獗」と呼ばれる前期倭寇の最盛期を迎えた。1380年には朝鮮で鎮浦大捷と撃退が称賛される倭寇500隻 の大襲撃があった。高麗は海賊取締を要請したが日本の北朝に無視されたため、1389年、対馬に軍を差し向ける康応の外寇を行ったといわれている。 詳細は「倭寇」、「高麗・朝鮮の対馬侵攻」、および「応永の外寇」を参照 高麗が滅び朝鮮に代わると、太祖李成桂は日本に禁寇を要求した。1392年、南北朝合一を果たして動乱を治めたばかりの足利義満は日本側として初めてこれに応じ、今川了俊に倭寇取締が命じられた。了俊はさらに守護大名大内義弘に命じて倭寇鎮圧の功績を上げた。朝鮮側がいう1396年の壱岐・対馬征伐は日本側に記録がないが、いずれにしても、日朝の取締強化によって前期倭寇は減退の傾向を見せていた。しかし1419年、太宗上王と世宗が応永の外寇(己亥東征)の際に壱岐・対馬を慶尚道管轄下だと主張、保有船の3分の1以上を超える227隻1万7千余の大軍勢で、壱岐・対馬を侵略した。ちょうどこの頃、明の永楽帝との関係がこじれていた時期で、将軍足利義持は明が朝鮮と連合して攻めてきたのかと驚き、京都では三度目の蒙古襲来という噂が広がって大きな衝撃が広がった。幸い、この外寇は宗貞盛の僅かな手勢によって撃退され、台風を恐れて撤退した。結局、これが朝鮮側からの最後の日本侵攻となった。前期倭寇は、明の海禁、勘合貿易が始まるなどしたことで1444年頃にほぼ終息した。他方、日朝貿易の増加は、通交統制となって、1510年に恒居倭人(朝鮮居留日本人)の反乱である三浦の乱という副産物を生んだ。 後期倭寇は、1511年にポルトガルがマラッカを滅ぼして東アジアでの交易を始め、1523年に寧波の乱が起きるなどして、勘合貿易が途絶えて、明王朝の海禁政策を逃れた中国人が増える状況で、再び活発化した。歴史学者村井章介らの研究 などを基にすれば、16世紀初頭の1501年から1525年頃には、明、李朝、日本、琉球、東南アジア諸国の環シナ海地域においては、それまでの勘合貿易などの朝貢形式の明王朝主導の貿易ではなく、海禁政策に反する非合法な中国人倭寇商人の活動や、堺や博多の豪商などを中心にしたネットワークが構築されてシフトしていったという。後期倭寇は禁制を破った中国人や南蛮人なども混在した集団となったことで、襲撃の主な標的は朝鮮半島からもっぱら中国沿岸に移った。 しかし朝鮮でも1544年に後期倭寇による蛇梁倭変が起こり、通交統制がさらに厳しくなって天皇と大内氏・少弐氏の使節以外の日朝通交が禁止された。これに困った宗氏が偽使を用いて朝鮮と締結したのが、1547年の丁未約条である。この時、対馬宗氏が朝鮮に駿馬を求め、朝鮮が日本に服属している旨を明朝に伝えたとの報告を行った。これに対して朝鮮の司憲府大司憲林百齢は激怒しているが、日朝間の立場は明と対馬の宗氏とを介して複雑に絡み合っており、後の文禄の役の原因の一つともなる。(後述) 詳細は「偽使」を参照 嘉靖帝の時代の武力による海禁政策の厳格な施行で、かえって海外に拠点を持つ後期倭寇の活動は過激化して最盛期となった。王直などの中国人大頭目が率いる倭寇が、五島列島などを根城に活躍したのはこの頃である。1554年6月には済州島で唐人と倭人の同乗する船が朝鮮水軍と衝突する事件が起き、1555年には乙卯の倭変があり、倭寇が明の南京や朝鮮の全羅道を侵した。また1555年には達梁倭変があり、1557年に丁巳約条が締結された。後期倭寇はポルトガル人貿易と競合し、明の取締強化と、群雄割拠した戦国大名が勢力圏を広げて日本側の根拠地を追われたことで、衰退。1588年、秀吉の海賊停止令発布によって終息した。
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