朝鮮側
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 10:05 UTC 版)
朝鮮王朝は農本主義を国是として商業を抑制する志向を持ち、国内で産出することの無い物資の入手を除けば貿易それ自体を必要としていなかった。しかし14世紀末は前期倭寇が猛威を奮った時代であり、朝鮮王朝は倭寇沈静化の一策として倭寇禁圧に協力的な西国諸勢力あるいは倭寇自体に通交権を与え、平和的通交者へと懐柔していった。 こうして始まった日朝貿易は、通交使節による進上と回賜、公貿易、日朝双方の商人による私貿易の三つの形態が組み合わさったものであった。朝鮮王朝にとり公貿易は利益を産み出すためのものではなく、市価よりも日本側に有利な取引価格で交易を行なったことなどもあり、国庫に負担となっていた。朝鮮側の輸出品は主に綿布であったが、1475年における綿布の輸出量は2万7千匹であったのに対し、翌年には3万7千匹に急増し漢城(ソウル)の布貨が払底しそうになる。1488年には綿布の輸出量は夏の3ヶ月だけで10余万匹に達し、16世紀に入ると1回の通交で8万5千匹(1525年の日本国王使)、10万匹(1523年の日本国王使)と大量の綿布が輸出されている。公貿易において引き渡されるこれらの綿布は税として国庫に納められたものであるが、朝鮮王朝は綿布の備蓄が底を付くことを危惧し、時には公貿易を禁止するなど輸出の抑制に頭を悩ませていた。こうした国庫負担を軽減する手段として公貿易を禁止し私貿易に切り替えるという方法も存在した。しかし私貿易は密貿易の温床になりやすく、また日朝商人間のトラブルも頻繁に発生したため、朝鮮王朝は私貿易に対して抑制的であった。朝鮮王朝の政策は定まらず、私貿易の禁止や解禁、逆に公貿易を禁止するなど迷走の体を見せていた。日本側にとっても公貿易で得られる綿布は国庫より放出される良質の品であり、また公貿易の方が市価よりも有利な価格で取引出来たことから公貿易による取引を望むものであった。 日本側通交使節の持ち込む貿易品は朝鮮側の手で三浦(朝鮮半島南部にあった入港地)から陸路を輸送され、漢城で公貿易が行なわれていた。三浦から漢城までは倭人上京道路と呼ばれる通交使節の往来ルートが定められていたが、倭人上京道路の沿線住民は貿易品の輸送に駆り出されて多大な労苦を負わされており、逃散し流民と化す者も出現していた。また、通交使節及び使送船の船員の朝鮮滞在費も朝鮮側が賄っていた。これらの使節・船員には朝鮮滞在中のみならず帰路日本に辿り着くまでの食糧・酒・薪・炭などが支給されていたが、1439年には支給米だけで年間10万石に昇っていた。
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