倭館における交易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:01 UTC 版)
中世の倭館交易では日本側は銅、硫黄、金を輸出したが、南方物産である赤色染料の蘇木、胡椒などのスパイス類も琉球経由などで朝鮮に転売した。朝鮮側輸出品は木綿や綿が中心であった。中世には木綿の本格的栽培はまだ日本では始まっておらず、江戸時代になってようやく木綿の輸入を必要としなくなった。また正式の通交使節との公貿易では、大蔵経など朝鮮の書籍も日本に輸出された。 近世の倭館交易では日本側は銀、硫黄、金、その他南方物産を朝鮮側に輸出した。朝鮮側は朝鮮人参、トラ皮などの朝鮮産品も輸出したが、江戸時代前期の最大の輸出品は生糸、絹織物などの中国産品であった。当時、日本の絹は品質が劣り、高級衣料として中国絹が好まれたためである。朝鮮はこれら中国産品を、朝貢貿易や国境貿易で入手することができたが、日本は明への入港を拒絶されていたため中国密貿易船の来航を待つしかなかった。対馬藩はこの中国産品の中継貿易によって巨額の利益を上げ、藩の禄高は実質10万石以上とされた。 しかし18世紀になって日本でも絹生産の技術が向上すると、中国産品の輸入が減少し、釜山交易に打撃を与えた。また朝鮮側が厳禁していた朝鮮人参の種が密かに日本に持ち出され、日本国内でも朝鮮人参栽培に成功した。一方、日本国内の銀産出量が激減したため、銀輸出が禁止され、銅や金が主要輸出品目に変わった。このため、18世紀以降、倭館交易は衰退するが、断絶することはなかった。
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