倭館の再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
倭館は豊臣秀吉による文禄・慶長の役で閉鎖されたのちに己酉約条によって再開された。釜山には日本人が生活する倭館が建設され、敷地は10万坪、人口は400人から500人ほどだった。江戸時代から明治初期にかけては、倭館が唯一の公認の日本人町だった。李朝は鎖国政策をとっていたが、日本とは正式な国交を保った。ただし文禄・慶長の役からの警戒もあって、日本人は首都漢城府には入れず、李朝が準備した釜山の倭館まで往来ができた。そのため、朝鮮からの情報は入手しづらい状態であった。 秋田藩の家老による『梅津政景日記』によれば、秋田の院内銀山には高麗にゆかりのある人物がいたという記録もある。
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