倭隋らの任官について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/29 06:44 UTC 版)
『宋書』倭国伝では、珍の任官の際に倭隋ら13人も将軍号の任官を受けたと見える。この倭隋の詳細は明らかでないが、倭王と共通する「倭」姓であるため、ヤマト王権内では王族将軍が支持基盤であったことが示唆される。ただし平西将軍は安東将軍と同じ第三品で、品内でも1階しか違わないことから、当時の倭では王と同程度の人物が補佐する統治構造であったとする説、その様子と百舌鳥古墳群・古市古墳群の並立との対応をみる説もある。なお、高句麗王・百済王・倭王の場合は「征東・鎮東・安東」など中国の視点の将軍号であるが、倭隋の場合は「平西」という倭の視点の将軍号になる点が注意される。
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