倭迹迹日百襲媛命説とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 倭迹迹日百襲媛命説の意味・解説 

倭迹迹日百襲媛命説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:52 UTC 版)

卑弥呼」の記事における「倭迹迹日百襲媛命説」の解説

孝霊天皇皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。 『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡中にある。同時代の他の古墳比較して規模隔絶しており、また日本各地類似した古墳存在し出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器見出せるなど、以後古墳標準になった考えられる重要な古墳である。当古墳築造により古墳時代開始されたとする向きが多い。 この箸墓古墳後円部大きさ直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩と言う記述一致している。 『日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命についての三輪山の神との神婚伝説や、前記箸墓が「日也人作、夜也神作日中は人がつくり、夜は神がつくった)」という説話記述されており、神秘的な存在として意識されている。また日本書紀では、倭迹迹日百襲媛命崇神天皇神意伝え巫女役割果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼倭迹迹日百襲媛命と男弟=崇神天皇との関係に類似する。もっとも、倭迹迹日百襲媛命崇神天皇親戚にあたるが、姉ではない。そこで、『魏志倭人伝』は崇神天皇と百襲媛命との関係を間違って記述したのだという説(西川寿勝などが提唱)が存在する。さらに魏志倭人伝の「卑彌呼以て死す。(中略)徇葬する者、奴婢余人。」と、日本書紀の「百襲」という表記の間になんらかの関連性指摘する向きもある。 従来上記箸墓古墳築造年代古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼時代とは合わないとされてきた。しかし最近年輪年代学放射性炭素年代測定による科学的年代推定反映して古墳時代開始年代従来より早められた。箸墓古墳築造年代についても、研究者により多少前後はあるものの卑弥呼没年248年頃)に近い3世紀中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている。 日本書紀によれば倭迹迹日百襲媛命亡くなった後、崇神天皇群臣に「今は反いていた者たちはことごとく服した畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎ止めない四道将軍たちは今すぐ出発せよ」という詔を発し四道将軍各地方の敵を平定させており、国中争い起きたことは卑弥呼の死後に起こったという戦乱思わせる記紀律令国家時代編纂なので、初期天皇中華式の王朝として描き天皇より上の権威認めなかったが、上述のように箸墓古墳倭迹迹日百襲媛命の墓だと仮定したら、崇神天皇陵より巨大であって当時天皇よりも権威をもっていた可能性が高い。 現在では畿内論者でも、卑弥呼具体的に記紀登場人物あてはめようとする説は多くないが、記紀登場人物あてはめる場合には倭迹迹日百襲媛命とされることがもっとも多い。 文献的にこの説の有利な点は、『古事記』の崩年干支から崇神天皇崩御戊寅年については258年とみる説が少なくなく、この場合卑弥呼記紀でいう崇神天皇同時代となるということが挙げられる問題点 卑弥呼の塚の径百余歩とは魏時代尺度(短里)では30メートル程度であるとされ、もしこれが正しければ箸墓古墳サイズにあわない。また長里計算して記述一致せずこれだけ巨大な前方部無視し後円部だけの大きさ無視したことは不審である。 箸墓古墳年代論には疑問多く推定年代100150年以上繰り上げしている可能性指摘されている。また宝賀寿男は、史書規模形状一致しないこと、当時魏の属国であった倭国果たして魏皇帝陵墓よりも巨大な陵墓造営できたかという疑問殉葬の跡が見られないこと、周辺から出土した遺物推定年代よりも後世のものであること、卑弥呼死亡後内乱時において巨大な墳丘を伴う陵墓造営する余裕考えられないことなどから、箸墓卑弥呼の墓とするには疑問があるとし、規模形状のほか、墳丘裾部にある集団墓群を殉葬ではないかとして、福岡県久留米市祇園山古墳比定する説を唱えている。 倭迹迹日百襲媛命皇族一人ではあっても「女王」呼べるほどの地位と権威有していたとは、考えにくい。安本美典批判するところによれば、「「魏志倭人伝」には、卑弥呼亡くなって国中争い起きた記述があるが、「日本書紀」等我が国文献では、百襲媛命は天皇親戚巫女過ぎず亡くなって国中争い起きるほどの重要人物だとはとうてい考えられず、両者同一人物とするには矛盾がある」となる。 崇神天皇陵墓が、行燈山古墳または西殿塚古墳可能性高く、両古墳とも考古学的に4世紀前後であることから、崇神天皇古事記の崩年干支戊寅から318年没で4世紀初頭人物である可能性高くなり、その場合には崇神治世まで生きた倭迹迹日百襲媛命卑弥呼である可能性はなくなる。

※この「倭迹迹日百襲媛命説」の解説は、「卑弥呼」の解説の一部です。
「倭迹迹日百襲媛命説」を含む「卑弥呼」の記事については、「卑弥呼」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「倭迹迹日百襲媛命説」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「倭迹迹日百襲媛命説」の関連用語

倭迹迹日百襲媛命説のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



倭迹迹日百襲媛命説のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの卑弥呼 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS