倭銀と貿易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:21 UTC 版)
銀が国際的な貨幣であったため、1540年代以降には銀を輸出する貿易が活発となる。日本の銀は倭銀とも呼ばれて貿易用に普及が進み、朝鮮では貨幣として使われている木綿布と交換された。朝鮮王朝は私貿易で銀が大量に流入するのを避けるために、公貿易として対処した。これは、明への貢銀を避けるための対策もかねていた。当時の日本からの国使の多くは、貿易を目的とした偽使であった。銀と引き換えに大量の綿布が輸入されて、船舶の帆布や衣料品となる。大内氏の主催による1539年(天文8年)の第18次遣明船には堺や博多の商人も多数参加して、銀で唐物を購入した。 銀の増産によって、海外からの日本進出も盛んになる。明では銀で納税する一条鞭法という銀本位制をとっていたため、銀を求めて福建のほかにも浙江や広東の商人が訪れた。ポルトガルとの南蛮貿易が始まると、平戸からも銀が輸出されるようになった。明は海禁の政策をとっており、倭寇とつながりがあるとされた日本との取り引きは禁じられた。しかし、中国沿岸やポルトガルの商人は統制のなかでも日本に渡航を続けて、長崎・マカオ間の定期航路を開設する。これによって倭銀がマカオから明に流入するルートが確立した。日本からの銀は、メキシコからマニラ・ガレオンで運ばれる銀と並んでアジアの貿易に影響を与え、江戸時代に入っても続いた(後述)。
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