倭館の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 05:01 UTC 版)
釜山倭館に来航した対馬藩家老は1867年、明治新政府の成立を大院君政権に通告したが、朝鮮側は日本の新しい主権者が「皇上」と名乗っていることを理由に国書の受け取りを拒否した。1871年、日本で廃藩置県が実施されると、江戸時代以来対馬藩に委ねられていた朝鮮外交権を外務省が接収。1872年、外務丞・花房義質が釜山に来航し、草梁倭館を接収して大日本公館と改称した。これに対して大院君政権が強硬に退去を要求したため、日朝間の外交問題に発展し、日本で征韓論が台頭する一因となった。その後、1875年の江華島事件を経て、翌年日朝修好条規が締結され、日本外交使節はソウルに駐在となった。ここにおいて釜山の倭館は200年の歴史を閉じることになった。
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