こうかとう‐じけん〔カウクワタウ‐〕【江華島事件】
江華島事件
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江華島事件(こうかとうじけん、カンファドじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島(現仁川広域市江華郡)付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。朝鮮西岸海域を測量中[注釈 3]の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる[7]。日朝修好条規締結の契機となった。
- ^ 明治太平記[1](編輯:村井静馬 画:鮮斎(小林)永濯、序:明治8年3月27日、刊行明治13年(1880年)12月、判本:東京・小林鉄治郎)による。なお絵図中にある旭日旗は1870年6月13日(明治3年5月15日)太政官布告第355号により制定された「陸軍御国旗(陸軍御國旗)」であり、この当時の御国旗ないし海軍旗ではない。軍艦旗(海軍旗)への制定は明治22年である。
- ^ 1875年(明治8年)当時の海軍旗はこの絵中の左にある海軍旗章である。日本の初代軍艦旗(海軍旗)は、中央に黄色いロープを巻きつけ、赤い桜花を上部に付けた赤い錨を描き、2本の赤いジグザク横線を入れた白旗であった。1871年(明治4年)から1888年(明治21年)まで軍艦に使用された[4][5]。なお、この当時の韓兵は白衣である。
- ^ 書契及び服制問題の打開を兼ねた示威運動とされる[6]。
- ^ 朝鮮政府の抗戦の意思は明確で、日本に仲介を求める動きも期待できず、アメリカ艦隊が長崎から出航している状況のなかでは日本への猜疑が強まる可能性もあった。[8]
- ^ 井上勝生によれば、この報告は報告の時点で意図的な作為が行われたものであったとされている[10]。
- ^ この議案の基礎には副島外務卿「朝鮮尋交手続並目的」があるとされる。なお現存する議案は征韓論の政争後に粉飾されたと推測されているが、直接に副島文書をベースに作成されたとみて不都合はないと考えられている[11][12][13]。
- ^ 清国大使には、これを認めていた
- ^ 江華島事件の頃は、日本以外にも仏、露、米、英の船が朝鮮沿岸を、頻繁に測鉛法により水深測量をしていた。清国の開国がなったアヘン戦争以降、欧米列強の船は朝鮮、日本との将来の通商交易に備えて両国の近海で給水、食料補給、漂流民の送還等を名目にして海岸に近づき無断測量を試みた。日本が開国した後は、日本周辺は国際法に則り事前通知/承認測量が実施されたが、国際交通を拒絶し国際法秩序を共有していなかった朝鮮に対しては、引き続き欧米列強国の無断測量が行われた。なお、朝鮮政府は日本の軍艦雲揚・丁卯等を欧米列強国と同一とは見なさず、無断測量として即攘夷の対象にしていなかったのは以下の対応から分かる。①軍艦雲揚の迎日湾測量にあたり、上陸し朝鮮地方官と面談したが、抗議を受けたという記録はない。②窓口である釜山の大日本公館(草梁倭館)にも測量に対して東莱府から質問はあったが抗議はなかった。なお測量については訓導玄昔運の「案ずるにもあらず、案ぜざるにもあらず」の発言にあるように、歓迎はされていない。
- ^ 「既にして本艦号火の暗令に応じ、国旗を檣上に掲げ航來し」
- ^ 田保橋潔氏は、9月29日付の報告書が未発見の1934年(昭和9年)の段階で「10月8日付報告書」について『日時地名に不正確な点が多く、かつ1日間の戦闘にしては無理があり信頼性に欠ける』と指摘している。
- ^ 手漕ぎのボートでカッターと呼ばれる。日本カッター連盟の主催で行われるカッター競技大会には9m端艇(オール数12挺、長さ9m、中央部幅2.45m、深さ0.83m、排水量1.5t、最大乗員45名)が使用される。日本海海戦時においては、巡洋艦、戦艦に9m端艇が搭載されていた。他に7m、6m端艇がある[23]。
- ^ 草芝鎮(江華島南東端)から永宗島に至るサリー河(盬河)の東岸は、現在は埋め立てられているが、事件当時は干潮時には広大な干潟が露出、満潮時は冠水し水没する地形であった[24]。
- ^ 1875年(明治8年)9月20日の済物浦(仁川港)の満干潮時刻。満潮8時0分頃/20時35分頃、干潮1時55分頃/14時05分頃。(海上保安庁所有の調和定数による推測計算)
- ^ 2011年(平成23年)9月20日のソウルの日没時刻は18時30分である。
- ^ …該城ハ周囲僅ニ八、九町過ギザル小砦ニシテ壁ノ高サ七、八尺ニ満タズ。其ノ結構粗造ニシテ丸石ヲ積ミ粘土ヲ以テ之ヲ塗リ銃眼ヲ穿ツノミ。断ジテ砲弾ヲ抗拒スベキ者ニアラズ。…此処ハ旧邑ト称シ、元来砦内民家六十余戸アリシガ、往年雲揚艦ノ一挙ニ兵火ニ罹リ、今僅ニ十一戸ヲ余スノミ。…土民砦内ノ丘腹ヲ墾シ、麦綿等ヲ作ル。城内井二箇アリテ、水質純良ナリ。就中城ノ西北隅ニアル者ハ満潮ニ際シ端舟ヨリ、喞筒ヲ以テ水ヲ取ルヲ得ベシ。… — [25]
江華島事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:42 UTC 版)
詳細は「江華島事件」を参照 9月20日、日本の雲揚艦が朝鮮側の首都漢城に近い月尾島沿いに投錨中、雲揚所属の端艇が江華島の砲台から砲撃を受ける事件が発生した(江華島事件)。雲揚は反撃し、永宗島の要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器、旗章、楽器等を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件は朝鮮側が日本海軍所属の軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なものとされ、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交交渉が大きく進展した。
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江華島事件
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「高雄丸 (日本海軍)」の記事における「江華島事件」の解説
高雄丸は1875年に起きた江華島事件に関連して朝鮮へ派遣された。12月15日、黒田清隆辨理大臣が玄武丸に乗組み朝鮮へ出張するため、日進、孟春、高雄丸が釜山までの護衛を命令された。高雄丸は砲兵1小隊、歩兵1中隊が同乗し翌1876年(明治9年)1月6日品川を出港、3月6日に品川に帰着した。なお『恩給叙勲年加算調査』では3月21日品海着となっている。
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