江華島条約交渉
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1875年9月には、解決しない書契問題の武力解決を図るため、日本が江華島へ軍艦を派遣して交戦した雲揚号事件(江華島事件)が勃発。事後交渉のため、翌1876年1月に特命全権大使黒田清隆・副使井上馨らが江華島へ派遣された(詳細は江華島事件#事件発生後の日朝両国の対応を参照)。この交渉の席上で、再び10年前の八戸事件が話題に上ることとなる。朴珪寿は、朝鮮側に不利な交渉を少しでも有利にするため、日本側のペースによる議事進行を緩める目的で、八戸発言を取引材料として用いることを主張し、採用された(朴珪寿は大院君政権の排外政策を批判した際にも八戸事件に触れており、この件を熟知していた)。日本の紀元節(2月11日)に行われた両国全権による第1回会商において、日本側の井上副全権が、7年に及ぶ書契問題の責任を追及したところ、朝鮮側全権申櫶は八戸の記事をとりあげ、(朝鮮が日本に五年ごとに朝貢したなどと)日本側が朝鮮を侮辱した件を示し、両国関係が悪化したのはこの記事のせいであると反論したのである(同月2日、会議前に朝鮮議政府が釈明のために提出した謝辞でも、八戸発言が触れられている)。日本側は、「新聞は政府が関与できるものではなく、各国の新聞はその国の君主の間違いを指摘し、掲載する場合もある。八戸の虚説については、先年対馬藩主がすでに弁解済みである」と再反論し、結局朝鮮側はこの件を取り下げている。もっとも朴珪寿は対日融和派で、失脚したとはいえ大きな影響力を持つ大院君勢力との対立を制しつつ、初めから日本とは妥結するつもりであった。結果的には日本側の言い分を受け入れ、日朝修好条規が締結されることになる。しかしこの交渉の過程で、10年も以前の新聞記事に過ぎない八戸発言が利用されたことは注目に値する。 このように、八戸順叔が広州の一新聞に載せた記事は、10年間もの長きにわたって、日本・清・朝鮮の間に横たわった外交案件となり続けたのである。
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