江藤の功罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
江藤の拙速主義は、ついにブスケからも批判された。 法律というものは、ある土地から他の土地へ移植されるものではない。法律は、すでに生まれている要望…本能…習俗に、正確に答えるという条件においてのみ、永続もし効果もあるものなのだ。…日本の大臣たちは…フランス法典こそがすぐれて文明諸国民の法律であるように思われ…翻訳し公布すること以外にはとるべき道をほとんど認めていなかったのである。…私は間もなく…性急な仕事の空しさを認識…するようになった…革命的なやり方では…国民を結合させずに…途方に暮れさせるだけである。…この企ては、一言で言うなら、熟していず、それには長い忍耐強い準備を必要とする。 — ジョルジュ・ブスケ 津田も、「江藤は太閤秀吉の尾張城普請の様に一夜で日本五法を作り上げようとしたが…到底できるものではない。私にもやれと言ふたが、私は出来ぬと断った」と証言している。 仮りに仏国の五法に何等の修正を加へずして我帝国に之を実施するとした所で、元来法律と云ふものは独りで運用して行くものではない…どんなに立派な法律が布かれても之を施行することに付て巧みなる所の判官が居なくてはいけないが、司法卿は何処から其判官を御連れなさる積りであるか。 — 津田真道 津田の批判を是としつつも、江藤が外国法調査を鋭意率先したからこそ、後の法典編纂に繋がったとの評価もある(穂積陳重)。
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