江藤・亀井派時代
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1999年7月、村上が自民党の参議院議員会長に選出されたことを受けて派閥を離れることになり、亀井が後任会長の候補に挙がるが、旧渡辺派から入ってきた山中貞則、中山正暉のような頑固者の重鎮が多く、とてもじゃないが手に負えないそんなベテラン達を束ねる力がないと思った亀井は江藤隆美に会長を打診し「俺は金がない、だから引き受けられない」と断られる。亀井により全部の金を出された人柄の江藤は引き受けることになり第二代会長に就任(亀井は会長代行のまま、実務担当)。2000年6月25日に行われた第42回衆議院議員総選挙では櫻内義雄、原健三郎が引退し、前通産相の与謝野馨、政調会長代理の桜井新ら中軸メンバー、大物議員(中尾栄一、木部佳昭、佐藤孝行、松永光、島村宜伸など)の落選が相次ぎ、11人の大幅減となり、政調会長の亀井は「人数より中身が痛い」と漏らした。選挙後の発足した第2次森内閣では亀井が政調会長に留任し、谷洋一が農林水産大臣、平沼赳夫が通商産業大臣に就任した。2001年自由民主党総裁選挙には亀井が立候補したが小泉純一郎に敗れた。 派閥結成当初より、党内でも守旧派であったが、村上・小山孝雄がKSD事件で受託収賄容疑で逮捕され、参議院議員辞職したため、柳川覚治が繰り上げ当選。2001年の小泉政権誕生以降は、江藤と亀井は、改革派の小泉の言ういわゆる「抵抗勢力」の代表格として、小泉改革を批判する急先鋒となった。
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