柳川覚治とは? わかりやすく解説

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柳川覚治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/30 06:55 UTC 版)

柳川 覚治
やながわ かくじ
生年月日 (1926-04-24) 1926年4月24日
出生地 日本 神奈川県秦野市
没年月日 (2004-06-26) 2004年6月26日(78歳没)
死没地 日本 東京都調布市
出身校 早稲田大学
前職 国家公務員文部省
所属政党 自由民主党
称号 正四位
勲二等瑞宝章

選挙区 比例区
当選回数 3回
在任期間 1983年 - 1995年
2001年2月 - 2001年7月
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柳川 覚治(柳川 覺治[1]、やながわ かくじ、1926年4月24日 - 2004年6月26日)は、日本政治家文部官僚参議院議員(3期)。

来歴・人物

神奈川県秦野市出身[2]陸軍士官学校(60期)を中退し(同期に加藤六月)、秦野高校を経て、1950年早稲田大学政治経済学部卒業。文部省入省。同省の体育局長や管理局長を経て退官、1983年第13回参議院議員通常選挙比例区自由民主党から立候補し初当選し当時の自民党総裁及び内閣総理大臣中曽根康弘が創設した政策科学研究所に属した。以後3期務める[3]1986年第3次中曽根内閣沖縄開発政務次官1995年第17回参議院議員通常選挙落選。2001年小山孝雄KSD事件で受託収賄容疑で逮捕され、参議院議員を辞職したため、繰り上げ当選、任期満了まで5か月ほど議員を務めた。2002年春の叙勲で勲二等瑞宝章[4]。2004年6月26日、急性心不全のため東京都調布市の病院で死去、78歳[3]。死没日をもって正四位に叙される[1]

文部科学省施設整備汚職事件

逮捕された五洋建設子会社顧問は柳川(事件発覚当時死去)の私設秘書を務めていた[5]。柳川は旧文部省管理局長であり、国会議員としては、工事を受注する業者団体である文教施設協会会長として大きな影響力を持っていた。また、逮捕された元文教施設企画部長は柳川のかつての部下であり、五洋建設子会社顧問は柳川の私設秘書という立場で元文教施設企画部長と親しかった。

役職

親族

関連項目

脚注

  1. ^ a b 『官報』第3898号9-10頁 平成16年7月23日号
  2. ^ 神奈川県立秦野高等学校同窓会々報 第12号”. 神奈川県立秦野高等学校同窓会 (1983年7月20日). 2023年6月30日閲覧。
  3. ^ a b 柳川覚治氏死去 元自民党参院議員”. 共同通信 (2004年6月26日). 2012年4月18日閲覧。
  4. ^ 『官報』号外第89号65頁 平成14年4月30日号
  5. ^ 文科省汚職 贈賄容疑者、文教族秘書「12年の威光」 天下り先も紹介 読売新聞 2008年4月8日



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