国交交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:42 UTC 版)
国交交渉再開の気運が高まり、1875年に交渉が行われた。日本側は外務省理事官森山茂と広津弘信、朝鮮側は東莱府の官僚が交渉を始めたが、書契に使用される文字について両者の認識に食い違いが生じて交渉は決裂、森山は砲艦外交を行うことを日本政府に上申したが、三条実美の反対があり、川村純義の建議により日本海軍の砲艦二隻(雲揚および第二丁卯)が5月に派遣され朝鮮沿岸海域の測量などの名目で示威活動を展開するに留まった。その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(営口)までの航路研究を命じられて出港した。
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