日本総領事任命〜解任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 22:08 UTC 版)
「シャルル・ド・モンブラン」の記事における「日本総領事任命〜解任」の解説
このような功績から新政府の外国官知事・伊達宗城(元宇和島藩主)は、江戸に駐在していたフランス公使ロッシュに対し、モンブランをパリの日本公務弁理職(総領事)に任ずると通知している。その後、モンブランは大阪・神戸間に電信を架設する計画を立て新政府に願書を提出しているが、すでに新政府には自ら架設する計画があり機械も英国に発注していたためモンブラン提案を断った。1869年(明治2年)、モンブランは鹿児島で島津忠義(茂久)に謁見した後、今度は東京において、樺太の領有権問題や宗教問題(浦上弾圧事件により日本が諸外国から抗議を受けたもの)など、新政府の外交に助言をよせたが、ヨーロッパにいて直接交渉の必要があり、年末に、留学生の前田正名と御堀耕助(太田市之進)を伴ってフランスへ帰国した。 パリに到着後、モンブランはナポレオン3世の承認を受け、異例の日本総領事となる。モンブランはパリのティヴォリ街8番地の自宅を日本総領事館(日本公務弁理職事務局)とし、前田を住まわせるとともに領事任務に当たった。日本のキリシタン弾圧政策の弁明につとめるとともに、日露国交交渉に直接乗り出そうとしたが、フランス人であったため、日本外交の代表権を持つ公使就任をフランス政府に拒まれ、実現しなかった。普仏戦争(1870–71年)の勃発に伴い、プロイセン軍の包囲下でパリ・コミューンが成立するなどパリが混乱に陥ると、日本政府はモンブランを解任し、新たに鮫島尚信を弁務使として派遣することを決定した。 1870年10月28日付けで解任されたモンブランは、その後もパリにあって同好の士と共に日本文化研究協会 (Société des études japonaises) を作り、フランスにおける日本語・日本文化研究を推進した。著書に『日本事情』や、『鳩翁道話』(柴田鳩翁)のフランス語訳などがある。その後も西園寺公望ら、日本からの留学生と交流した。 1894年1月22日、パリにおいて独身のまま死去。日本の歴史記述においては、しばしば敬遠されたり山師扱いされたが、近代初期の日本外交において独特な活躍をみせた人物である。
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