日朝間の懸案:書契問題とは? わかりやすく解説

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日朝間の懸案:書契問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:42 UTC 版)

日朝修好条規」の記事における「日朝間の懸案:書契問題」の解説

西欧列強迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく開国明治維新により近代国家となった日本は、西欧諸国のみならず自国周辺アジア諸国とも近代的な国際関係樹立しようとした。朝鮮にも1868年12月明治政府樹立するとすぐに書契、すなわち国書対馬藩宗氏介し送った江戸時代通じて朝鮮との関係宗氏通じ築かれていたためである。しかし国書中に「皇」や「奉勅」といった用語が使用されていたために、朝鮮側受け取り拒否した前近代における冊封体制下において、「皇上」や「奉勅」という用語は中国の王朝にのみ許された用語であって日本がそれを使用するということは冊封体制頂点に立ち朝鮮よりも日本国際地位を上とすることを画策したと朝鮮捉えたのである旧暦明治元年にあたる1868年以来何度朝鮮宛て日本からの国書もたらされたが、両国の関係は円滑なものとは言えなかった。書契問題背景として生じた日本国内における「征韓論」の高まりに、大院君が非常な警戒心抱いたことも一因である。また、長崎出島のように釜山倭館限定した国交を望む朝鮮側と、対馬宗氏から外交権取り上げて外交一元化し、開国を迫る日本との間に齟齬生じた釜山倭館朝鮮側日本、特に対馬藩使節商人饗応するために設けた施設であったが、明治政府対馬藩から外交権取り上げ朝鮮との交渉乗り出そうとした。その際倭館をも朝鮮側承諾無し接収し日本公館としたことから事態悪化し必要物資供給及び密貿易停止朝鮮側から宣言される事態となった日本朝鮮との交渉有利にするため、朝鮮宗主国である清朝対等条約進めて1871年日清修好条規締結した。これにより冊封体制維持理由国交交渉忌避する朝鮮修交促した1873年対外強硬派大院君失脚し王妃閔妃一派権力握っても、日朝関係容易に好転しなかった。転機訪れたのは、翌年日清間の抗争発展した台湾出兵である。この時、日本朝鮮出兵する可能性清朝より知らされ朝鮮側では、李裕元や朴珪寿中心に日本からの国書受理すべしという声が高まった対馬藩もたらす国書に「皇」や「勅」とあるのは単に自尊意味する過ぎず朝鮮に対して唱えているのではない、受理しないというのは「交隣講好の道」に反していると主張した

※この「日朝間の懸案:書契問題」の解説は、「日朝修好条規」の解説の一部です。
「日朝間の懸案:書契問題」を含む「日朝修好条規」の記事については、「日朝修好条規」の概要を参照ください。

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