日朝修好条規の締結とは? わかりやすく解説

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日朝修好条規の締結

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:42 UTC 版)

日朝修好条規」の記事における「日朝修好条規の締結」の解説

条約交渉大きく分けて二段階ある。まずは日朝修好条規そのもの交渉次に条規附録及び貿易規則に関する交渉前者条約交渉には、日本からは全権大使黒田清隆副使井上馨が、朝鮮からは簡判中枢府事申櫶と副総管尹滋承が出席した交渉場所は事件のあった江華島(カンファド)とされた。 交渉最初から日本ペース進められた。まず随行兵士人数武器携帯めぐって本交渉前に協議されたが、日本側は朝鮮側抗議一蹴している。そして1876年2月11日本交渉開始された。朝鮮側は、1866年末に起きた八戸事件香港在住日本人八戸順叔が清の新聞征韓論記事載せたことから外交紛争となった事件)を交渉の場に持ち出したが、日本側は「八戸虚説はすでに江戸幕府および対馬藩否定済みである」と一蹴した日本側が突然条約締結持ち出したのは、以下の理由よる。釜山における国交交渉数年継続して挫折しつづけてきたことに焦れ日本ペリー江戸湾黒船来航前例倣いソウル近距離江華島威迫交渉することで一挙に積年懸案解決しよう図ったのである。そのために朝鮮との交渉際し事前に日本側はペリーの『日本遠征記』を研究し交渉姿勢から後に締結する条約に至るまで模倣したと言われる。[要出典] 朝鮮側はこの突然の条約締結申し入れ驚き最初拒否したが、日本側の提示した条約対す修正案を出すこととなった朝鮮側受け入れたのは、以下の理由よる。[要出典] 日本側の砲艦外交対し戦端を開く覚悟までは至らなかったこと 清朝実力者李鴻章条約締結助言したこと 朴珪寿らの開国論者たちの努力によって反対派説得したこと 日朝間の交渉挙がった修正項目は、両国国名をどう記載するか、相手国に赴く使臣交渉相手とその資格往復回数開港場所とその数、最恵国待遇などであった朝鮮側修正要求冊封国としての体面的なものが多く後々問題となる領事裁判権一切問題としなかった。数ヶ月後に結ばれた条規附録貿易規則定められ関税自主権放棄なども円滑に承認された。 条約批准段階至っても、朝鮮側関心事体面的なものであった。すなわち批准の際、朝鮮国王署名要しないことを日本側に求めた結局、この問題は「朝鮮国主上之宝」という玉璽新鋳して押下批准することになった。そして、2月27日朝鮮旧暦2月3日)に江華練武堂で条約締結及び批准した

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