日朝修好条規の締結
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条約交渉は大きく分けて二段階ある。まずは日朝修好条規そのものの交渉。次に条規附録及び貿易規則に関する交渉。前者の条約交渉には、日本からは全権大使黒田清隆と副使井上馨が、朝鮮からは簡判中枢府事申櫶と副総管尹滋承が出席した。交渉場所は事件のあった江華島(カンファド)とされた。 交渉は最初から日本ペースで進められた。まず随行兵士の人数や武器携帯をめぐって、本交渉の前に協議されたが、日本側は朝鮮側の抗議を一蹴している。そして1876年2月11日に本交渉が開始された。朝鮮側は、1866年末に起きた八戸事件(香港在住の日本人八戸順叔が清の新聞に征韓論の記事を載せたことから外交紛争となった事件)を交渉の場に持ち出したが、日本側は「八戸の虚説はすでに江戸幕府および対馬藩が否定済みである」と一蹴した。 日本側が突然条約締結を持ち出したのは、以下の理由による。釜山における国交交渉が数年間継続しても挫折しつづけてきたことに焦れた日本はペリーの江戸湾黒船来航の前例に倣い、ソウルに近距離な江華島で威迫交渉することで一挙に積年の懸案を解決しようと図ったのである。そのために朝鮮との交渉に際し、事前に日本側はペリーの『日本遠征記』を研究し、交渉姿勢から後に締結する条約に至るまで模倣したと言われる。[要出典] 朝鮮側はこの突然の条約締結の申し入れに驚き、最初は拒否したが、日本側の提示した条約に対する修正案を出すこととなった。朝鮮側が受け入れたのは、以下の理由による。[要出典] 日本側の砲艦外交に対し、戦端を開く覚悟までは至らなかったこと 清朝の実力者李鴻章が条約締結を助言したこと 朴珪寿らの開国論者たちの努力によって反対派を説得したこと 日朝間の交渉で挙がった修正項目は、両国の国名をどう記載するか、相手国に赴く使臣の交渉相手とその資格・往復回数、開港場所とその数、最恵国待遇などであった。朝鮮側の修正要求は冊封国としての体面的なものが多く、後々問題となる領事裁判権は一切問題としなかった。数ヶ月後に結ばれた条規附録や貿易規則で定められた関税自主権の放棄なども円滑に承認された。 条約批准の段階に至っても、朝鮮側の関心事は体面的なものであった。すなわち批准の際、朝鮮国王の署名を要しないことを日本側に求めた。結局、この問題は「朝鮮国主上之宝」という玉璽を新鋳して押下批准することになった。そして、2月27日(朝鮮旧暦2月3日)に江華府練武堂で条約を締結及び批准した。
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