公使常駐問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 14:42 UTC 版)
朝鮮側の認識では、日朝修好条規の締結は江戸時代における冊封体制下における交隣関係復活であると捉えていた。決して近代的な国際関係の中に自国が置かれたとは考えていなかった。したがって両国が公使を相互に常駐させる必要性を認めることはなかったのである。むしろ朝鮮通信使のように、慶弔といった事柄に対し随時使節を送れば良いと主張し、そして首都に常駐することに非常な懸念を表明した。 日朝間で激しいやりとりがあったが、弁理公使花房義質が日朝間を頻繁に往来し、1880年12月には漢城に公使館を設置することで長期滞在を既成事実化したため、朝鮮側も黙認せざるを得なくなった。同年、朝鮮側も東京に公使館を設置している。 一方朝鮮側は1876年5月、日本側の勧めにより答礼使節として両班を成員とする修信使を日本に派遣した。開化途上にある日本の現状を視察するのが本来の目的であったが、派遣された両班たちには保守的な者が多く、1回目の派遣はあまり成果が無かったといわれる。金弘集に率いられた2度目の修信使は、駐日清朝公使何如璋及び黄遵憲と面会し、黄の『朝鮮策略』を持ち帰っている。第二回修信使の見聞、日本政府との交渉、『朝鮮策略』の持参によって、朝鮮の対外政策は欧米に対する開国政策へと舵を切り始めた。
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