本交渉
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明治4年(1871年)5月、日本政府は正規の全権大臣として旧宇和島藩主の伊達宗城を任命し、副使となった柳原前光もまた継続して交渉を進めた。これに対し、イギリス・フランス・アメリカ合衆国の3国は、日本と清国がもし攻守同盟を結ぶことになれば、日本にとって決して幸福な結果をもたらさないだろうとの共同声明を発して干渉した。これに対し、日本政府は5月10日に政府声明を発して、日清同盟の噂を公式に否定したのであった。 6月、伊達全権は天津に到着し、ただちに本交渉に入った。第1条では「いよいよ和誼を敦くし天地と共に窮まりなかるへし。又、両国に属したる邦󠄈土もおのおの礼を以て相まち、いささかも侵󠄃越する事なく永久安全を得せしむへし」として子々孫々までの日清友好が謳われた。日本側の条約案は当初、清国と欧米諸国が結んだ諸条約、特に清国とドイツ帝国が結んだ天津条約(清独条約)をもととして、日本を欧米諸国の立場に置く不平等条約案であった。日本としては、他の欧米列強のように最恵国待遇や清国の内地通商権を獲得したかったのである。 清朝の全権を託された李鴻章はこれを一蹴して最恵国条款と内地通商権規定を削除し、領土保全と他国からの侵略に対する相互援助規定を盛り込んだ対案を提起した。それが上述の第1条、そして第2条に示された「両国好を通󠄃せし上は、必す相関切す。もし他国より不公󠄃及ひ軽藐(軽蔑)することある時、その知らせをなさは、いずれも互に相助け、あるいは中に入り程よく取扱ひ、友誼を敦くすへし」であり、これは明らかに一種の同盟規定であった。伊達宗城は第2条を完全に拒否し、列強はすでに日清同盟を疑っている以上、かれらを刺激するような文言を記すべきではないとして、さかんに列強に嫌疑をかけられないようにすべきことを主張した。これに対し、李は、西洋からの嫌疑がそれほど怖ろしいというのならば、伊達全権はむしろ清国に来なければよかったのであり、そうした方が日本も欧米に接しやすかろうと応じた。清国側の対案は充分に準備されたものであり、交渉術も日本側より巧みであった。 これについては日清双方の意見が互いに平行線をたどった。伊達全権は、日米間ないし清米間で結ばれた条約(日米和親条約、望厦条約)における類似する条項と同様の解釈、すなわち平時における紛争解決を友好国のよしみで調停する程度のものにすぎないという解釈をほどこしたうえで、これに同意した。こうして、明治4年7月29日(1871年9月13日)、末永く両国の友好を謳った対等条約、日清修好条規が結ばれたのである。 調印者 欽差全権大臣従二位大蔵卿 伊達宗城 欽差全権大臣 直隷総督 李鴻章
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