東アジア経済グループから東アジアサミットへとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 東アジア経済グループから東アジアサミットへの意味・解説 

東アジア経済グループから東アジアサミットへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 03:47 UTC 版)

東アジア共同体」の記事における「東アジア経済グループから東アジアサミットへ」の解説

1990年代入りグローバリゼーションの下で資本貿易の自由化進めたASEAN外国資本技術導入のために、ASEANをより魅力ある経済市場として統合する必要に迫られた。これを受け、1990年末にはマレーシアマハティール・ビン・モハマド首相によって、ASEAN6カ国にインドシナ諸国日中韓などを加えた東アジア経済グループ(EAEG)が提唱された。EC(現・EU)やNAFTA進展対抗すべく提唱されたこの構想は、後に東アジア経済協議体EAEC)と改称されるものの、排他的経済ブロック懸念する米国反対や、それに追随した日本不参加等により成立する事は無かった。 EAEG構想頓挫すると、アジアEUとの連携必要性感じた欧州委員会によって発表され報告書『新アジア戦略向けて』を受けて1994年10月演説においてシンガポールゴー・チョク・トン首相アジア欧州会合ASEM)を提唱する事となる。この時点でのアジア側のメンバーASEAN日中韓予定されており、それはEAEG構想重なるものであったニュージーランドインド台湾なども参加意向示したもののマレーシア反発遭い最終的にASEAN6カ国にベトナム日本中国韓国加えた10各国アジア代表として選ばれた。また、ほぼ時を同じくしてASEAN日中韓による経済閣僚会合計画されていたが、豪州ニュージーランド参加認められなかったため日本参加拒否し、それを受けて韓国不参加表明結果的にEAEGと同一メンバーでの初めての会合中止余儀なくされていた。1996年2月にはASEM関連してASEAN7カ国と日中韓による首脳会談開催され準備会合という位置付けありながらも、事実上ASEAN+3会議成立する事となる。 1997年12月クアラルンプールにおける非公式ASEAN首脳会議際し初めASEAN+3という枠組みでの首脳会議開催される事となるが、このきっかけ作ったのは1997年1月橋本龍太郎首相東南アジア訪問であった日本ASEANとの関係強化目指し橋本首相は、シンガポールでの演説橋本ドクトリン提示し同時に日本ASEAN首脳による定期的な会合提案した。これに対し中国への影響懸念したマレーシアは「中国に対しては、封じ込め政策ではなく友好政策を採るべき」とし、慎重な姿勢見せた同年3月には、ASEAN首脳会議ASEAN+3首脳会議ASEAN+1日本首脳会議同時開催マレーシアより提案され最終的には、更にASEAN+1中国首脳会議加えた4つ会議開催された。このように日本ASEANとの関係強化狙った日本の外交政策は、結果的にASEAN+3という枠組み形成する事に繋がったのであるまた、そのような折に発生した1997年7月アジア通貨危機が、皮肉にもアジア結束力を一層強め地域連携をより加速させる事となった。緊急支援求めたタイ・インドネシア・韓国対し米国主導するIMFやアジア太平洋経済協力会議APEC)はアジア資本主義縁故資本主義非難し支援に無関心であった東アジア諸国次第日本支援期待始めると、日本はこれを受けてアジア通貨基金AMF構想打ち出した。この構想米国とIMFの反対によって頓挫したが、今度新たな支援策として新宮沢構想 と形を変え1998年12月ベトナムにおけるASEAN首脳会議招待国として参加した際に提示された。また、中国胡錦濤副主席蔵相中央銀行総裁による会議開催を、韓国金大中大統領東アジア・ビジョン・グループEAVG) の設置提案したこのように通貨危機取り巻一連の動きによって東アジア諸国は、既存制度秩序不十分さやIMF・アジア開発銀行ADB)の無力さ痛感し東アジアにおける地域連携必要性認識する事となった。同じ枠組みでの会合2年連続開催された事は、「ASEAN+3」という枠組み存在を示すには充分なものであり、また胡錦濤副主席提案した分野別でのASEAN+3会合開催承認された事はそれを裏付けるとなったのである東アジア地域協力実体化への動きは、1999年11月ASEAN+3首脳会議において採択された「東アジアにおける協力に関する共同声明」に端を発する。これはAPEC東南アジア諸国連合地域フォーラムARF)と比較しても、経済社会から政治安全保障に至るまで、極めて包括的に協力を行う事を宣言したものであった2000年3月蔵相中央銀行総裁代理会議で、新たな基金創設視野入れた資金協力枠組み作り検討合意され5月には通貨スワップ協定向けて合意至った。これが、いわゆるチェンマイ・イニシアティブCMI)である。この会合ではASEAN+3蔵相会議半年毎の開催について合意し以降も、同じ枠組みでの経済閣僚会議外相会議労働相会議農林会議観光会議エネルギー会議環境相会議設立され、その中には定例化しているものもある。このようにASEAN+3という枠組み事実上制度化向けてその方向性定めていく事となった。 ASEAN+3首脳会議が同枠組みにおける種々の閣僚会議頂点として位置付けられ始めると、EASGにおいてASEAN+3東アジアサミット進展させる事が議論され同時に貿易投資の自由化見据えた東アジア協力体制促進検討され始めたまた、ASEAN中国首脳会議中国朱鎔基首相中国ASEAN間での自由貿易構想提案した事で、結果として東アジア全域における自由貿易構想可能性検討され始めたのである同時に日中韓首脳会議では日中韓首脳会談定例化も合意されている。なお、これら一連の動きの中で、最も政治的リーダーシップ発揮したのは、中国であったそれまで地域協力に無関心であった中国は、中国ASEAN自由貿易地域創設提案だけでなく2001年以降毎年ボアオ・アジア・フォーラム開催するなど、近年その動き活発化させている。中国ASEAN貿易総額1990年以降急増しており、2004年には1000ドル達し、これは温家宝首相2003年打ち出した2005年での達成前倒し実現した事となる。また、2004年ASEANとの共催中国ASEAN博覧会(CAEXPO) が広西チワン族自治区開催されるなど、中国ASEAN経済緊密化は急進展している。加えて同年中国ASEAN首脳会議では中国ASEAN戦略パートナーシップ行動計画発表し併せて双方2005年から段階的に関税引き下げる事となった。ASEAN原加盟国6カ国とは2010年に、新加盟国4カ国は2015年に、ほとんどの貿易品関税撤廃する定められており、これにより中国ASEAN間の貿易額2000ドル達すであろう見られている。 一方日本は、中国韓国比べると、東アジア地域化については非常に消極であった感は否めない日本GATT原則乗っ取った多国間での「自由」貿易原則重要性訴え、また外交基本方針として対米・対欧関係を重視するあまりアジア軸足を置く事ができなかった。これにより、日本グローバリゼーション下での地域化の意味充分に把握できず、その対応に遅れを取る事となった。近年ようやく、日本の貿易政策WTO主体とした多国間貿易「自由」化策からFTAによる地域貿易協定重点置いた政策へと転換しつつあり、2002年シンガポールとの間では日本初めてのFTAとなる新時代経済連携協定EPA)を締結した。これを皮切りに2003年には韓国とのFTA交渉開始2005年にはメキシコとの経済連携協定発効し同時にASEANとの協定締結向けて本交渉開始予定するなど、日本FTA締結への取り組み加速させた。2002年には小泉純一郎首相シンガポールでの政策演説において、ASEAN+3オーストラリアとニュージーランド加え共同体」をより漠然とさせた地域協力目指し東アジアを「共に歩み共に進むコミュニティ」とする構想(東アジア・コミュニティ構想)を打ち出した。またそのために、1.教育人材育成分野における協力、2.2003年「日本ASEAN交流年」、3.日本ASEAN包括的連携構想、4.東アジア開発イニシアティブIDEA)、5.国境越え問題海賊テロSARSHIVといった感染症津波等の大規模災害、ほか)を含め安全保障面での日本ASEAN間での協力強化、という「5つ構想」を示し、それに向け、日本ASEAN重視政策一環として様々な協力打ち出している。2003年12月日本ASEAN特別首脳会議では、ASEAN首脳ASEAN域外初め一堂に会する機会となっただけでなく、前述の「5つ構想」の1つある日本・ASEAN交流年の記念イベントともなったまた、この会議において日本ASEAN東京宣言 と、その実現に向けた日本ASEAN行動計画採択され幅広い分野での協力約束された。これら一連の動きは、日本ASEAN重視政策象徴するとなった。 以上のように、現在、東アジア地域化への動き日本ASEAN韓国ASEAN中国ASEAN三本柱進められており、日中韓ASEAN一体化した形での包括的な政策検討EAVG報告検討作業を行う東アジア・スタディ・グループEASG)に委ねられている。2003年11月EASGでは17短期的措置と9の中期的措置提言しており、加えてASEAN+3という枠組みによる、長期的目標としての東アジアサミットEAS)を指摘した2005年にはマレーシアが、ASEAN議長国務める事を機に同国クアラルンプールにおける第1回EAS提案した続いて中国2007年第2回EAS北京での開催示唆した。これを受けてEAS2年1度ASEAN域内ASEAN域外の国が交互に開催するという議論がなされ始めたのである同年第1回EASでは、結局ASEAN+3加えインド豪州ニュージーランド参加し、計16カ国による開催となったASEANとの関係の深さ東南アジア友好協力条約TAC加盟国という条件選ばれインド豪州ニュージーランドについては、中国台頭影響ASEAN影響力低下恐れたインドネシアシンガポールがその参加支持した事により実現したEASについては、参加国枠組みASEAN首脳会議との関連性共有するべき理念方向性について、未だに議論要する争点多く残されている。形式論先行動き対し根本となる東アジア協力意義について再度議論求める声もあるが、それでも東アジアが自らの主体性発揮しサミット開催した自体について「東アジア地域化向けた第一歩」として一定の評価をする有識者もいる。

※この「東アジア経済グループから東アジアサミットへ」の解説は、「東アジア共同体」の解説の一部です。
「東アジア経済グループから東アジアサミットへ」を含む「東アジア共同体」の記事については、「東アジア共同体」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「東アジア経済グループから東アジアサミットへ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「東アジア経済グループから東アジアサミットへ」の関連用語

東アジア経済グループから東アジアサミットへのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



東アジア経済グループから東アジアサミットへのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの東アジア共同体 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS