東アジア経済グループから東アジアサミットへ
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「東アジア共同体」の記事における「東アジア経済グループから東アジアサミットへ」の解説
1990年代に入り、グローバリゼーションの下で資本と貿易の自由化を進めたASEANは外国資本や技術の導入のために、ASEANをより魅力ある経済市場として統合する必要に迫られた。これを受け、1990年末にはマレーシアのマハティール・ビン・モハマド首相によって、ASEAN6カ国にインドシナ諸国や日中韓などを加えた東アジア経済グループ(EAEG)が提唱された。EC(現・EU)やNAFTAの進展に対抗すべく提唱されたこの構想は、後に東アジア経済協議体(EAEC)と改称されるものの、排他的経済ブロックを懸念する米国の反対や、それに追随した日本の不参加等により成立する事は無かった。 EAEG構想が頓挫すると、アジアとEUとの連携の必要性を感じた欧州委員会によって発表された報告書『新アジア戦略に向けて』を受けて、1994年10月の演説においてシンガポールのゴー・チョク・トン首相がアジア欧州会合(ASEM)を提唱する事となる。この時点でのアジア側のメンバーはASEANと日中韓が予定されており、それはEAEG構想と重なるものであった。ニュージーランドやインド、台湾なども参加の意向を示したもののマレーシアの反発に遭い、最終的にはASEAN6カ国にベトナム、日本、中国、韓国を加えた10各国がアジア代表として選ばれた。また、ほぼ時を同じくしてASEANと日中韓による経済閣僚会合も計画されていたが、豪州とニュージーランドの参加を認められなかったため日本が参加を拒否し、それを受けて韓国も不参加を表明、結果的にEAEGと同一メンバーでの初めての会合が中止を余儀なくされていた。1996年2月にはASEMに関連してASEAN7カ国と日中韓による首脳会談が開催され、準備会合という位置付けでありながらも、事実上のASEAN+3会議が成立する事となる。 1997年12月、クアラルンプールにおける非公式のASEAN首脳会議に際し、初めてASEAN+3という枠組みでの首脳会議が開催される事となるが、このきっかけを作ったのは1997年1月の橋本龍太郎首相の東南アジア訪問であった。日本とASEANとの関係強化を目指した橋本首相は、シンガポールでの演説で橋本ドクトリン を提示し、同時に日本とASEANの首脳による定期的な会合を提案した。これに対し、中国への影響を懸念したマレーシアは「中国に対しては、封じ込め政策ではなく友好政策を採るべき」とし、慎重な姿勢を見せた。同年3月には、ASEAN首脳会議、ASEAN+3首脳会議、ASEAN+1(日本)首脳会議の同時開催がマレーシアより提案され、最終的には、更にASEAN+1(中国)首脳会議を加えた4つの会議が開催された。このように、日本とASEANとの関係強化を狙った日本の外交政策は、結果的にはASEAN+3という枠組みを形成する事に繋がったのである。 また、そのような折に発生した1997年7月のアジア通貨危機が、皮肉にもアジアの結束力を一層強め、地域連携をより加速させる事となった。緊急支援を求めたタイ・インドネシア・韓国に対し、米国の主導するIMFやアジア太平洋経済協力会議(APEC)はアジアの資本主義を縁故資本主義 と非難し、支援に無関心であった。東アジア諸国が次第に日本へ支援期待を始めると、日本はこれを受けてアジア通貨基金(AMF)構想を打ち出した。この構想は米国とIMFの反対によって頓挫したが、今度は新たな支援策として新宮沢構想 と形を変え、1998年12月のベトナムにおけるASEAN首脳会議に招待国として参加した際に提示された。また、中国の胡錦濤副主席が蔵相・中央銀行総裁による会議の開催を、韓国の金大中大統領が東アジア・ビジョン・グループ(EAVG) の設置を提案した。このように、通貨危機を取り巻く一連の動きによって東アジア諸国は、既存の制度や秩序の不十分さやIMF・アジア開発銀行(ADB)の無力さを痛感し、東アジアにおける地域連携の必要性を認識する事となった。同じ枠組みでの会合が2年連続で開催された事は、「ASEAN+3」という枠組みの存在を示すには充分なものであり、また胡錦濤副主席が提案した分野別でのASEAN+3会合の開催が承認された事はそれを裏付ける形となったのである。 東アジア地域協力の実体化への動きは、1999年11月のASEAN+3首脳会議において採択された「東アジアにおける協力に関する共同声明」に端を発する。これはAPECや東南アジア諸国連合地域フォーラム(ARF)と比較しても、経済、社会から政治、安全保障に至るまで、極めて包括的に協力を行う事を宣言したものであった。2000年3月の蔵相・中央銀行総裁代理会議で、新たな基金の創設も視野に入れた資金協力の枠組み作りの検討が合意され、5月には通貨スワップ協定に向けての合意に至った。これが、いわゆるチェンマイ・イニシアティブ(CMI)である。この会合ではASEAN+3蔵相会議の半年毎の開催についても合意し、以降も、同じ枠組みでの経済閣僚会議・外相会議・労働相会議・農林相会議・観光相会議・エネルギー相会議・環境相会議が設立され、その中には定例化しているものもある。このようにASEAN+3という枠組みは事実上の制度化へ向けてその方向性を定めていく事となった。 ASEAN+3首脳会議が同枠組みにおける種々の閣僚会議の頂点として位置付けられ始めると、EASGにおいてASEAN+3を東アジアサミットへ進展させる事が議論され、同時に貿易と投資の自由化を見据えた東アジアの協力体制の促進が検討され始めた。また、ASEAN・中国首脳会議で中国の朱鎔基首相が中国ASEAN間での自由貿易構想を提案した事で、結果として東アジア全域における自由貿易構想の可能性が検討され始めたのである。同時に、日中韓首脳会議では日中韓首脳会談の定例化も合意されている。なお、これら一連の動きの中で、最も政治的リーダーシップを発揮したのは、中国であった。それまで地域協力に無関心であった中国は、中国・ASEAN自由貿易地域の創設の提案だけでなく2001年以降毎年ボアオ・アジア・フォーラムを開催するなど、近年その動きを活発化させている。中国とASEANの貿易総額は1990年以降急増しており、2004年には1000億ドルに達し、これは温家宝首相が2003年に打ち出した2005年での達成を前倒しで実現した事となる。また、2004年にASEANとの共催で中国ASEAN博覧会(CAEXPO) が広西チワン族自治区で開催されるなど、中国とASEANの経済緊密化は急進展している。加えて、同年の中国ASEAN首脳会議では中国・ASEAN戦略パートナーシップ行動計画 を発表し、併せて双方は2005年から段階的に関税を引き下げる事となった。ASEAN原加盟国6カ国とは2010年に、新加盟国4カ国は2015年に、ほとんどの貿易品の関税を撤廃すると定められており、これにより中国・ASEAN間の貿易額は2000億ドルに達するであろうと見られている。 一方日本は、中国や韓国に比べると、東アジアの地域化については非常に消極的であった感は否めない。日本はGATT原則 に乗っ取った多国間での「自由」貿易原則の重要性を訴え、また外交の基本方針として対米・対欧関係を重視するあまりアジアに軸足を置く事ができなかった。これにより、日本はグローバリゼーション下での地域化の意味を充分に把握できず、その対応に遅れを取る事となった。近年ようやく、日本の貿易政策はWTOを主体とした多国間貿易「自由」化策からFTAによる地域貿易協定に重点を置いた政策へと転換しつつあり、2002年にシンガポールとの間では日本で初めてのFTAとなる新時代経済連携協定(EPA)を締結した。これを皮切りに、2003年には韓国とのFTA交渉を開始、2005年にはメキシコとの経済連携協定を発効し、同時にASEANとの協定締結に向けて本交渉開始を予定するなど、日本はFTA締結への取り組みを加速させた。2002年には小泉純一郎首相がシンガポールでの政策演説において、ASEAN+3にオーストラリアとニュージーランドを加え「共同体」をより漠然とさせた地域協力を目指し、東アジアを「共に歩み共に進むコミュニティ」とする構想(東アジア・コミュニティ構想)を打ち出した。またそのために、1.教育・人材育成分野における協力、2.2003年「日本・ASEAN交流年」、3.日本・ASEAN包括的連携構想、4.東アジア開発イニシアティブ(IDEA)、5.国境を越える問題(海賊、テロ、SARSやHIVといった感染症、津波等の大規模災害、ほか)を含め安全保障面での日本とASEAN間での協力強化、という「5つの構想」を示し、それに向け、日本はASEAN重視政策の一環として様々な協力を打ち出している。2003年12月の日本・ASEAN特別首脳会議では、ASEANの首脳がASEAN域外で初めて一堂に会する機会となっただけでなく、前述の「5つの構想」の1つである日本・ASEAN交流年の記念的イベントともなった。また、この会議において日本・ASEAN東京宣言 と、その実現に向けた日本・ASEAN行動計画 が採択され、幅広い分野での協力が約束された。これら一連の動きは、日本のASEAN重視政策を象徴する形となった。 以上のように、現在、東アジアの地域化への動きは日本・ASEAN、韓国・ASEAN、中国・ASEANの三本柱で進められており、日中韓とASEANが一体化した形での包括的な政策検討はEAVGの報告の検討作業を行う東アジア・スタディ・グループ(EASG)に委ねられている。2003年11月、EASGでは17の短期的措置と9の中期的措置を提言しており、加えてASEAN+3という枠組みによる、長期的目標としての東アジアサミット(EAS)を指摘した。2005年にはマレーシアが、ASEANの議長国を務める事を機に、同国クアラルンプールにおける第1回EASを提案した。続いて中国も2007年の第2回EASの北京での開催を示唆した。これを受けて、EASを2年に1度ASEAN域内とASEAN域外の国が交互に開催するという議論がなされ始めたのである。同年の第1回EASでは、結局ASEAN+3に加えインド、豪州、ニュージーランドも参加し、計16カ国による開催となった。ASEANとの関係の深さや東南アジア友好協力条約(TAC)加盟国という条件で選ばれたインド、豪州、ニュージーランドについては、中国台頭の影響でASEANの影響力の低下を恐れたインドネシアとシンガポールがその参加を支持した事により実現した。EASについては、参加国の枠組みやASEAN首脳会議との関連性、共有するべき理念の方向性について、未だに議論を要する争点が多く残されている。形式論先行の動きに対し、根本となる東アジア協力の意義について再度議論を求める声もあるが、それでも東アジアが自らの主体性を発揮しサミットを開催した事自体について「東アジアの地域化に向けた第一歩」として一定の評価をする有識者もいる。
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