東アジア歴訪
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「カール・ヨハン・マキシモヴィッチ」の記事における「東アジア歴訪」の解説
1853年、プチャーチン提督が遣日全権使節として日本に赴くことになり、彼も提督の率いるフリゲート艦ディアナ号に、同じバルト・ドイツ人学者のレオポルド・フォン・シュレンクと共に世界各地の植物相調査のため便乗する。しかし翌年、沿海州のデ・カストリーニに入港した時点でクリミア戦争が勃発し、調査打切りを余儀なくされる。近海をたむろしているイギリス艦船に攻撃される恐れがあったため、軍人らは上海へ引き上げるも、民間人である彼らはその恐れなしと判断して現地に上陸し、以降3年にわたってアムール地方の植物相を調査する。 1857年にサンクトペテルブルクに戻り、2年後の1859年に調査結果を「アムール地方植物誌予報」として学会に提出する。この論文により彼はデミトフ賞を受賞し、同時に科学アカデミーの賛助会員に選出される。
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