貿易品
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ポルトガルは貿易品を大きく5種類に分類して運んだ。(1)中国から日本、(2)日本から中国、(3)中国からインド、(4)インドから中国、(5)東南アジア各地の商品となる。 (1) 中国から日本:生糸、絹織物、金、陶磁器、硝石、生薬、砂糖。生糸は白糸と撚糸があった。生薬には大黄、甘草、山帰来があった。 (2) 日本から中国:銀が主力商品だった。その他に、硫黄、日本刀、南蛮漆器、螺鈿細工、マグロなどの海産物、そして豊薩合戦や九州平定で捕虜となった日本人や、文禄・慶長の役で捕虜となった朝鮮人の奴隷がいた。運ばれた奴隷は一説には50万人とも言われる[要出典]。 (3) 中国からインド:生糸、絹織物、陶磁器、金、真鍮、麝香、生糸は白糸のみだった。インドで消費されるものと、インド経由でヨーロッパへ運ばれるものがあった。 (4) インドから中国:銀、葡萄酒、オリーブ油。インドからの銀は、スペインがアメリカからヨーロッパへ運んだ銀が、さらにインドに運ばれたものだった (5) 東南アジア各地の産物:沈香、蘇木、錫、鉛、胡椒、竜脳、丁子、ウコン、鹿皮、鮫皮など香辛料が多かった。 この他に、カボチャ・スイカ・トウモロコシ・ジャガイモ・パン・カステラ・タバコ・地球儀・めがね・軍鶏などが日本にもたらされた。また、一般に輸出品としては扱われないが、長崎をはじめとして牛、豚、鶏、パンなどが来航者の食用に作られるようになり、船が出航する際にも塩漬けなどの形で積み込まれた。
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貿易品
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マニラ・ガレオンは香料諸島の香辛料、中国・東南アジアの磁器、象牙、漆器、絹製品を南米に運んだ。中でも中国産の絹織物が多くの割合を占めたため、アカプルコ行きの船は「絹船」と呼ばれることもあったという。日本が1638年に鎖国するまでは、日本との貿易もあった。積荷はアカプルコからメキシコを横断し、カリブ海に面した港ベラクルスまで陸送され、そこからスペイン王国のインディアス艦隊に積み込まれスペインに至った。この航路では、インド洋を渡り喜望峰を回るという危険な行程を避けることができた。喜望峰はオランダ制海権下にあった。スペイン人は、メキシコを横断するよりも、パナマ地峡の方が遙かに陸路が短距離で済むことを知っていた。彼らはパナマ地峡に輸送路を整えようとしたが、うっそうと茂るジャングルとマラリアに阻まれた。 ヨーロッパでは中国製品が珍重されたが、中国市場は自給自足が成立していた。中国で求められた唯一のものが、サカテカスとポトシで産出するアメリカの銀(洋銀・メキシコ銀)だった。銀はアカプルコからマニラに運ばれ、マニラ行きの船を「銀船」と呼ぶこともあったという。新大陸の銀のおよそ1/3が、この航路で中国に運ばれたと考えられる。また、布教を目的とした宣教師が多く乗り込んでいた為、「ガレオン船は銀と宣教師を運んでいる」とも喩えられた。マニラから太平洋を渡ってアカプルコに着くまで、4ヶ月を要した。マニラ・ガレオンはフィリピンとメキシコ副王領の首都メキシコシティとを結ぶ連絡経路の中心だった。フィリピンのスペイン人の多くはメキシコの流れをくみ、また実際フィリピンにおけるスペイン文化はメキシコのそれに近い。メキシコ独立後も、米西戦争中を除いて、貿易は続けられた。マニラ・ガレオンは3世紀近くにわたり太平洋を行き来し、財宝、利益、文化をスペインにもたらした。
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