貿易商となる
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1893年10月18日、京都市東山区、祇園の建仁寺の付近で生誕する。武士の家系に、紀州(今の和歌山あたり)を後にして京の都で一旗揚げようとした夫婦の間に、如一は生まれた。しかし不幸にも、父は如一が6歳の時に家を飛び出し、母の世津子は10歳の時に肺病で亡くなり、天涯孤独となった。1908年、16歳の時には肺結核、腸結核など多くの病に苦しむようになる。17歳で誌歌に触れ、雑誌『砂丘』を作り、他の誌歌の雑誌にも自分の作品を投稿したものである。1912年、20歳で石塚左玄の食養法に出会い健康を回復する。別の書籍によれば、14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、20歳の頃、食養家の後藤勝次郎を通して、左玄の食養生に触れる。 本も買えないほど貧乏であったが、苦労を重ねて、1913年には京都府立第一商業学校(現在の京都府立西京高等学校)を卒業した。同年、貿易会社に入り、また神戸仏語学校に入学。翌年この学校を卒業し、第一次世界大戦のため仏国領事のシャルパンティエの推薦でロンドンの汽船会社のチャーター船の事務長となる。当初、貿易会社を転々とした。また如一は社団法人食養会に入会し、雑誌『食養雑誌』に投稿をはじめる。さらにその翌年には神戸の貿易会社の支配人となるが、1917年には資金提供を受け貿易会社を作って支配人となり、欧米にも渡るようになる。羽二重を輸出した。 貿易事業と並行して、1919年には如一は雑誌『YOMIGAERI』を創刊して大和言葉のよみがえりを提唱し、また海外の本を輸入しては、シャルル・ボードレールの『NAYAMI NO HANA』(なやみの花、悪の華として知られる、1920年)、ジョルジュ・ローデンバックの『TE NO SUDI』(手のすじ、1921年)、アルトゥル・シュニッツラーの『KURISUMASU NO KAIMONO』(クリスマスの買い物、1921年)のような詩集を翻訳し、1923年には『NIPPON SISYU-KOTOBA NO HANATABA』(日本詩集・言葉の花束)を、ローマ字社から出版した。「よみがえり叢書」十数種を執筆している。雑誌の読者で運動の同志であった福永恭助と、同様にして当時大学生であった岩倉具実は約20年後にローマ字国語辞典を出版し、岩倉は如一にこれを贈り、ベーシック・イングリッシュ運動かのように育っていることに如一は感銘を受けた。(2人の共編で1940年の『口語辞典―Hanasikotoba o hiku Zibiki』がある) 1920年には日本初の放送機と受信機をフランスより持ち帰り、ラジオ放送局の下地を作った。1923年10月、日本デブリ社を設立、デブリ社の撮影機やコダック社の生フィルムを輸入し、小型カメラや映写機の特許もとったとされる。高速度撮影機は当時珍しい機械であった。5つの特許があり、たとえば35ミリのフィルムを半分の17.5にして使いフィルムの75%の節約につながる。1927年には増谷麟と共に『最新映画製作法』を出版するが、これはデブリ社の社長時代の記念品で遺品として陳列されてもよいほどであった。当時、如一の妻であった栄子は何度も家出をしており、ジフテリアにかかった二女の信子を如一に預け、1924年2月に信子は如一の腕の中で息を引き取った。 パリへの武者旅行の間の1935年には超小型飛行機の「空のシラミ」(プー・ド・シェル)の専売権を得て、日本で国産し飛行させた。東久邇宮より「ヒバリ」と名付けられ、新聞社からの購入もあった。その収入は食養会の復興にあてていた。未刊の著書に「小型飛行機プウの作り方と飛行独習法」があるが、戦争が迫り、日本飛行機社の竹崎社長が急死したことなどでプウの普及は実現しなかったということである。 ムダを嫌い、紙きれ一枚でも両面を使うよう人を教育した。
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