菅沼定長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/01 20:43 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動菅沼 定長(すがぬま さだなが、弘化4年(1847年) - 明治9年(1876年)3月7日)は、江戸時代後期の旗本(交代寄合衆)、明治時代の官僚、商人。間部詮勝の六男。菅沼定信の養子。第11代新城領主。
文久2年(1862年)、先代定信が没し、家督を継ぐ。幕末期において、大番頭、大坂城在番、海軍奉行並などを歴任する。慶応3年(1867年)、幕府の命でフランスへ留学するが、明治維新のため帰国した。明治2年(1868年)、版籍奉還朝臣となり、政府官僚として下中大夫、触頭、上局会議総代などを歴任した。明治6年(1872年)に退官し、東京銀座にて貿易商となった。明治9年(1876年)に没す。墓所は新城市の宗堅寺。戒名は慈徳院殿洞雲定長大居士。
参考文献
- 『新城の殿様菅沼家と宗堅寺』(新城市・2001年)
- 菅沼定長のページへのリンク