菅沼定芳とは? わかりやすく解説

菅沼定芳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/31 01:34 UTC 版)

 
菅沼 定芳
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正15年(1587年
死没 寛永20年1月17日1643年3月7日
改名 向丸(幼名)、定好(初名)、定芳
別名 左近(通称)
戒名 大虚院殿無参円徹大居士
墓所 京都府亀岡市西堅町の宗堅寺と新城市泉龍院
官位 従五位下織部正
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光
伊勢長島藩主→近江膳所藩主→丹波亀山藩
氏族 菅沼氏
父母 菅沼定盈松平家次の娘・普厳院
養父菅沼定仍
兄弟 竹千代、定仍、定成、定芳、定武、田中吉官本多康俊室ら
正室徳川家康の養女
継室三次一任の養女
定昭定実、定房、定方、定賞、定之、小笠原長矩正室ら
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菅沼 定芳(すがぬま さだよし)は、江戸時代前期の譜代大名伊勢国長島藩の第2代藩主、近江国膳所藩主を経て、丹波国亀山藩初代藩主となる。

生涯

天正15年(1587年)、菅沼定盈の6男として三河設楽郡野田にて生まれる。

慶長9年(1604年)から徳川家康に仕え、家康が隠居した後は徳川秀忠に仕えた。慶長11年(1606年)、長島藩の初代藩主であった同母兄の定仍が死去したため家督を継いで長島藩2代藩主となる。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても参戦し、武功を挙げた。元和7年(1621年)、近江膳所藩に3万1千石で加増移封される。寛永11年(1634年)、1万石加増の4万1000石で丹波亀山藩へ移封される。寛永20年1月17日(1643年3月7日)に死去した。享年57。正室との間には先立たれた娘2人のみで、家督は庶長子の定昭が継いだ。

系譜

父母
正室、継室
子女




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