増山正同とは? わかりやすく解説

増山正同

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/25 18:20 UTC 版)

 
増山 正同
時代 江戸時代末期 - 明治時代
生誕 天保14年2月29日1843年3月29日
死没 明治20年(1887年4月22日
墓所 東京都文京区小石川の蓮華寺
官位 従五位、備中守、贈従四位
幕府 江戸幕府
伊勢国長島藩
氏族 永井氏増山氏
父母 父:永井直方、母:桜井貞固の娘
養父:増山正修
水野忠啓の娘・喜美子(真如院)
娘(増山正治室)
養子:正治
テンプレートを表示

増山 正同(ましやま まさとも)は、江戸時代末期の大名伊勢長島藩の第8代(最後)の藩主。長島藩増山家9代。明治維新後に子爵

生涯

天保14年(1843年)2月29日、幕臣・500石で後に西丸目付を勤める永井三左衛門直方の次男として生まれる。通称は勇之助、隼人、大学。官位は従五位下、備中守。

最初は嘉永5年(1852年)、長島藩増山家分家で幕臣1000俵小普請組の増山銀之助の家督を相続し、小普請組に編入された。文久元年(1861年)には御書院番士、慶応2年(1866年)には御使番に就任し、そのまま明治維新を迎える。

その後、明治2年(1869年)には横須賀奉行支配に編入され、静岡県安西4丁目水口屋源右衛門方に寄留していたことがわかっている。同年、第7代長島藩主・増山正修の嫡子の正方が廃嫡された後に正修の養子となり、正修が死去したために家督を継いだ。同年6月24日に版籍奉還知藩事となり、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県で免官となる。

その後は東京に移住し、明治9年(1876年)には宮中祀候、のちに侍従になった。明治17年(1884年)、華族令によって子爵を叙爵される。明治20年(1887年)4月22日に死去した。享年45。

実父

実父については伊藤重信著「長島町誌」上(1974年)以降、大和新庄藩主・永井直方と言われてきたが、以下の点で誤りである。

  • 新庄藩主永井直方の没年である文政8年(1825年)と正同の生年の天保14年(1843年)が合わない。
  • 新庄藩主永井直方の幼名・通称に「三左衛門」はない。
  • 東京大学史料編纂所所蔵「華族明細短冊」に「実祖父永井大江直和(銲七郎)亡。旗下非役。実父永井大江直方(三左衛門)亡。旗下非役」とあって、明らかに新庄藩主とは異なる記述がある。

家族

父母

  • 永井直方(実父)
  • 桜井貞固の娘(実母)
  • 増山正修(養父)

養子女

参考文献

  • 「伊勢長島増山家譜」(東京大学史料編纂所所蔵)
  • 「江戸幕臣人名事典」(新人物往来社)より「増山勇之助」の項。
  • 「華族明細短冊」(東京大学史料編纂所所蔵)
  • 「駿遠へ移住した幕臣たち」3(前田匡一郎著・刊)
  • 「長島町誌」上(伊藤重信著 同町教育会刊)
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
長島増山家初代
1884年 - 1887年
次代
増山正治




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「増山正同」の関連用語

増山正同のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



増山正同のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの増山正同 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS