田中吉官とは? わかりやすく解説

田中吉官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/23 00:57 UTC 版)

 
田中吉官
時代 江戸時代前期
生誕 文禄2年(1593年
死没 明暦4年1月9日1658年2月11日
改名 菅沼定行(初名)→定官→田中吉官
別名 翁助(通称
戒名 殿雪
墓所 東京都新宿区舟町の全勝寺
官位 従五位下、主殿
幕府 江戸幕府
氏族 菅沼氏田中氏
父母 父:菅沼定盈 母:普厳院(松平家次の娘)
養父:田中吉興
兄弟 菅沼定仍、菅沼定成、菅沼定芳、菅沼定武、吉官
正室:田中吉興の娘
定格
養子:定房
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田中 吉官(たなか よしすけ)は、江戸時代前期の大名旗本菅沼定盈の八男。

生涯

田中家相続

文禄2年(1593年)、徳川氏の家臣・菅沼定盈の八男として誕生。初名は定行(さだゆき)、のち定官(さだすけ)。

徳川秀忠の近衆となり、大坂の陣へも出陣し、秀忠の麾下で軍功を挙げた。

元和8年(1622年)8月、秀忠の命により、嗣子が居なかった筑後柳河藩田中家支流の田中吉興の娘婿となる。吉官と改名して家督を相続し、近江国野洲郡三河国田原、上野国新田など2万石を領する。翌月、小姓頭に昇進した。

改易・赦免

小姓頭在任中の元和9年9月18日1623年11月10日)に、小姓組の同輩・三宅藤五郎が罪を犯して処罰されると、組頭として連帯責任を負い、除封となった。

寛永2年(1625年)に赦免されると、蔵米2000俵を給され、御書院番として起用される。のちに大番頭へと累進を重ねた。この際に蔵米を改め、上総国周准郡天羽郡安房国朝夷郡の3郡において3000石を加増されて、都合5000石を知行することとなった。

明暦4年(1658年)1月9日死去、享年59。

系譜

当初は子宝に恵まれず、生家・菅沼家から六兄・定芳の三男である定房(監物)を養子に迎えた。ところが寛永12年7月4日1635年8月16日)、その定房が10歳で病死した(法名は幼玉沙弥)。

のちに授かった実子からは、田中家が代々用いてきた通字の「吉」ではなく、生家・菅沼家の「定」に復し、嫡子には定格(さだただ)と名乗らせた。

田中家は定格の代で2000石を加増され、7000石を知行した。その跡を嫡男の定賢(従五位下、出羽守)が相続した。しかし、元禄15年(1702年)、定賢の子の定安が狂気により改易となり、同族の定堅が名跡を相続し、子孫は500俵の旗本として存続した。





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