本多俊次とは? わかりやすく解説

本多俊次

読み方ほんだとしつぐ(1595~1668)

本多康俊長男として文禄4年(1595)下総国生まれた元和7年(1621)、膳所城となったが、すぐに三河国転封慶安4年(1651)伊勢亀山から再び膳所城主に復帰以後本多氏膳所藩主を世襲した。俊次は、領内に対して、生活全般に渡る「定書」を発したが、この法令は、以後膳所藩政の基本とされた。寛文元年(1661)、粟津合戦戦死した今井兼平の塚を中庄すぐろ谷で見つけだし墓碑建立したほか、万治3年(1660)頃には浜御殿造営膳所城下東海道筋町家藁葺きから瓦葺きにし、通り景観一新したとの伝えもある。寛文8年(1668)没。墓は丸の内町縁心寺にある。



本多俊次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:49 UTC 版)

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本多俊次
時代 江戸時代前期
生誕 文禄4年(1595年
死没 寛文8年8月11日1668年9月17日
改名 俊次→浄有(法号)
戒名 専光院俊自浄有大居士
墓所 滋賀県大津市丸の内町の縁心寺
官位 従五位下、下総
幕府 江戸幕府
主君 徳川秀忠家光家綱
近江膳所藩主→三河西尾藩主→伊勢亀山藩主→近江膳所藩主
氏族 本多氏
父母 父:本多康俊、母:菅沼定盈の娘
兄弟 俊次忠相、俊昌、俊之、景次、
妹(前田利孝正室)
正室やや[1]立花宗茂の養女、小田部統房の娘)
康長、娘(牧野光成正室)、康将、忠顕、忠隆、俊正、名和宗朝、鈴木仍時、娘(春木孝光室)、娘(細川興栄正室)、忠利、守之、立花鎮俊、忠英、娘(伊丹某室)、娘(本多直国室)
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本多 俊次(ほんだ としつぐ)は、江戸時代前期の大名酒井忠次の孫。康俊系本多家宗家2代。

生涯

文禄4年(1595年)、徳川氏の重臣(のち膳所藩初代藩主)本多康俊の長男として下総小篠で生まれる。慶長15年(1610年)に従五位下・下総守に叙任される。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では父と共に参加し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では将軍・徳川秀忠に従って武功を挙げた。

元和7年(1621年)2月、父の死去により家督を継いで膳所藩主となる。しかし7月、5000石加増の3万5000石で三河西尾に加増移封された。寛永9年(1632年)10月23日、遠江掛川城の守備を務めた功績などにより、寛永13年(1636年)6月23日に1万5000石加増の5万石で伊勢亀山に加増移封された。そして慶安4年(1651年)4月4日、2万石加増の7万石で、再び膳所藩主として再任された。

寛文4年(1664年)9月12日、次男の康将に家督を譲って隠居する。寛文8年(1668年)8月11日、膳所で死去した。享年74。

系譜

父母

正室

子女

  • 本多康長(長男)生母は正室
  • 本多康将(次男)生母は正室
  • 本多忠顕、生母は正室
  • 本多忠隆
  • 本多俊正
  • 名和宗朝
  • 鈴木仍時
  • 本多忠利
  • 本多守之
  • 立花鎮俊
  • 本多忠英
  • 牧野光成正室
  • 春木孝光室)
  • 細川興栄正室
  • 伊丹某室
  • 本多直国室)

脚注

  1. ^ 帰命寺(大石曽束1)の香炉 - 大津のかんきょう宝箱 - 大津市 環境部 環境政策課



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