本多俊正 (戦国時代)とは? わかりやすく解説

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本多俊正 (戦国時代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/30 03:51 UTC 版)

 
本多俊正
時代 戦国時代
別名 弥八郎、佐渡守(通称)[1]
戒名 周鎮[1]
主君 松平清康広忠
氏族 本多氏
父母 父:本多正定[2]
兄弟 俊正、八左衛門 [1]
青野重貞本多正信、十助、正重 [3]
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本多 俊正(ほんだ としまさ)は、戦国時代三河国武将本多正信の父親にあたる。通称は弥八郎、佐渡守[1]

生涯

寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば、松平清康に仕えた本多正定の長男として誕生し、清康・広忠に仕えた、とある[1]

生い立ち

はじめ松平家重臣・酒井忠尚に仕える。

永禄元年(1558年)に北三河衆が反乱を起こすと、松平元康(のちの徳川家康)は今川義元の命令で討伐にかかる。

元康の初陣であるため忠尚家臣の俊正や大須賀康高榊原長政榊原康政の父親)といった歴戦の武将が付き従った。

東広瀬城攻め

反乱の代表三宅一族を率いる東広瀬城主・三宅高貞の討伐が始められる。大将は酒井忠尚と佐久間秀孝。

酒井忠尚率いる第一軍に俊正・榊原長政・大須賀康高・高木重正、松平家次(梅坪城主)率いる第二軍に三宅政貞(伊保城主。先の戦いで臣従)・細井勝宗、恩大寺祐一率いる第三軍に猿渡勘鉄斎、吉良義昭、中条常隆率いる第四軍に米津政信・伊奈貞政・碧海準行、その他松平信一や伊奈忠家、大河内基高らが従軍し、高貞を追い払う。

永禄3年(1560年)に高貞の一門・三宅高清が東広瀬城にて反乱を起こすと再び出陣し、討伐している[4]

徳川直臣に

俊正の主君・忠尚が永禄6年(1563年)に謀反を起こすと翌永禄7年(1564年)9月まで元康と戦った。この際俊正らは徳川家に臣従している。同年三河一向一揆が起こると、一揆方に息子の正信・正重が付き、戦後正信は逃亡、正重は臣従している。一方の俊正は元康方に付き、戦後は周鎭と称して元康の鷹匠となった。

その後の動向は不明であり、元亀年間に没したとされる。

『寛政譜』によれば「某年死す」とあり、享年は69とされる[1]

系譜

『寛政譜』によれば、妻は松平清康の侍女であった女性で、主命によって結婚した[1]

『寛政譜』には男子4名を載せる[3]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f g 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.707
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.706
  3. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.707-708
  4. ^ 『松平記』

参考資料

  • 『寛政重脩諸家譜』文化9年
  • 『松平記』
  • 丹羽基二樋口清之監修『姓氏 : 姓氏研究の決定版』秋田書店、1970年。
  • 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』平凡社、2017年。



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